保守を自認する安倍自民党総裁は「戦後65年にわたる問題点のひとつとして、私たちが価値の基準を損得に置いてきてしまったという点を挙げたい」と主張する(GLOBIS.JP)。その取り戻したい価値基準と言うのは一体、何なのだろうか?
家族主義や社会奉仕、そして天皇を中心にした国家機構を強調する点から考えるに、「教育ニ関スル勅語」の影響が大きいようだ。教育勅語には現代語訳が幾つかあるのだが、「教育勅語と現代語訳」のものが直訳に近いらしいので引用してみよう。安倍総裁の主張と合致するように思える。
私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
教育勅語より昔の道徳教育では、天皇家の存在は大きく無かったようだし、進んで公共の利益や世間の務めに尽力したり、公に奉仕したりするような努力義務は無かったようだ*1。武士道は庶民には関係ないし、武家も家名の存続が第一であったはずだ。明治時代に作られた価値観が、日本の保守の価値観のように思える。
この教育勅語は、個々の人間の努力目標としては悪く無いのかも知れないが、憲法に盛り込み法律の土台にすると問題が多くなる。公共の利益だからと言って個人の人権を圧迫する*2事になるし、危急の事態が生じたらさらに人権が抑制される。また、国家の構成単位が『個人』から『家族』になって、夫婦や親子、兄弟姉妹の間の利害関係がまるで無いかのように扱われるかも知れない*3。
教育勅語のような価値観を、国家が個人に押し付けようと言うのが、日本の保守主義になっている。実際に自民党の憲法改正案は、教育勅語を模範にしたかのような内容だし、安倍総裁も関わっている『教育基本法改正へ5つの提言』では、「教育勅語が謳いあげている『目指すべき教育のあり方』が、けっして間違ったものではなかった」と書かれているそうだ。
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