失われた江戸時代の礼儀作法と見せかけて自己流マナーを押し付けようとする、擬似史学の代表例になった感のある「江戸しぐさ」だが、その問題の構図について書籍化されていたので拝読した。「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」は、「江戸しぐさ」がいかに荒唐無稽な偽史学を論拠する道徳であることを指摘するだけではなく、その成立や普及についても検証を重ねた上で、教育現場からの排除を主張している本だ。前半は江戸文化の薀蓄本として面白く、後半も偽歴史がいかに形成されたか社会学的に興味深い。ただし、教育現場へ浸透した理由は、もう少し掘り下げても良いのでは無いかと思った。
教育に偽の歴史を使ってはいけない。虚偽を根拠に道徳を説くべきではない。ゆえに「江戸しぐさ」は教育現場から排除すべきだ。これら著者の主張には強く賛同する。しかし、道徳教育の場に「江戸しぐさ」が入り込んだ理由について、考察が十分ではない気がする。
蔓延した理由は言及されている。歴史学、民族学、近世文学の専門家が「江戸しぐさ」を放置したか、認知できなかった(P.178)。安倍総理や下村文科相などの政治家が「江戸しぐさ」の支援者である(P.152)。日教組の衰退で教科書検定が形骸化している(P.197)。しかし、道徳教育から排除されていない理由ではあっても、わざわざ道徳の教科書に載るようになった理由としては弱い。
道徳教育そのものに、大きな問題があるのだと思う。道徳教育は、実は学術でも実学でもない。ロールズやシンガーを教え出したら面白いと思うが、学問としての道徳の知識は必要だとは思われていない。実技として礼儀作法を教えるのも悪くはないと思う。「江戸しぐさの正体」では、欧米式マナーや茶道など実践教育で代替すればよいと指摘している。しかし、子供たちの思想を教化をしたい人々のニーズにあわない。そう道徳教育がしたい人々は、思想教化をしたい。
ところが思想教化をしたい人々には悩みがあって、寄りかかる思想、教えたい思想がない。道徳教育の「心のノート」を見たら、中身がスカスカだった*1。小説の一節や格言が散りばめられているのだが、何を教えたいのかが分からない。「江戸しぐさ」は虚構の産物でも伝統的規範のふりをするので、教育現場のニーズに応えているのであろう。
教科書会社がついた教育のための方便が、方便ではなく規則と思われるようになった算数の掛け算の順番*2など、教育現場には色々と問題が多いようなのだが、その中でも「江戸しぐさ」は異質なものだ。教育現場に偽科学が入り込んだのであれば、科学で置き換えてやれば問題解決する。しかし「江戸しぐさ」が入り込んだ道徳教育には、適当な代替物が無い。
思想教育を諦めて、倫理か礼儀作法を教えれば良いと思うのだが。
0 コメント:
コメントを投稿