哲学界隈の存命研究者ではピーター・シンガーと言う倫理学者が有名で、動物の取り扱いや妊娠中絶、安楽死などの現代的な倫理問題において多くの著作を持つ功利主義者だそうだ。そのシンガーが先進国の豊かな人は奢侈を抑制し、世界中の恵まれない人のために寄付をしましょう、寄付をするべきですと説いている本が『あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること』だ。趣旨に賛成はしないのだが、学者ではない人にも読みやすい構成で、用意周到に寄付にまつわる議論がカバーされており、良く調べているなと関心する。
1. 意外に直感的な倫理
一般書なので読者の心を掴むことに配慮されている一方で、公理から演繹するような議論は敬遠されている。例示によって、多少の自己犠牲を払ってでも他者を助けるのは望ましいと感じる事が、先進国の豊かな人々が開発途上国の貧しい人々を寄付によって助けるべき論拠として挙げられている。現代社会では人々は贅沢をしても幸福はそうは増えていかないので、世界の幸福の総和を増やすためには、豊かな人々が貧しい人々を助けるべきと言っていると思うのだが、明確には書かれない。先進国の人々は社会資本を使ってお金を稼いでいるのだから、お金を自由に使う権利があるとは言えない(p.33)、開発途上国の人々に負の影響を与え来たのでリバタリアン的な立場でも寄付すべきとある(p.38)し、世界の多くの宗教が貧しい者を助ける道徳的義務を主張している事も指摘しているので、根拠を功利主義と言う一つの倫理だけに狭めたくなかったのかも知れない。
2. 直感的に同意が難しい所もある
思考実験的な事例によって読者の直感に訴える技法には、違和感を感じなくもない。水害の事例に強い人は、溺れている子供を助けるのに池に入るのは当然のように感じないであろうし*1、他人の子供のために生涯年収の半分を費やしたクラシックカーを捨てるべきかは私には分からなかった。寄付すべきかどうかは個々の人間の倫理感によるというのは、道徳的相対主義だと猫の虐待が肯定されるので問題だと否定されている(P.32)わけだが、猫の虐待がそう大きな問題に感じない人には説得力が無いであろう。
3. 寄付や援助にまつわる議論は詳細
倫理を示すところが直感的な一方で、寄付や援助にまつわる批判には具体的に丹念に答えていく。先進国から開発途上国への援助額は思われているよりもずっと小さいこと、援助は色々な手法で効率的に行なわれようとしているので非効率や弊害は大きな問題ではないこと、援助によって人口爆発などの問題も解決に導けること、援助を支援するために寄付を行なうことはドナーの満足度をも向上されることが述べられている。また、人々が寄付などの人助けを行なうきっかけの説明も丁寧だ。寄付をしましょうと言う話のはずだが、寄付をさせる社会の構築も目論んでいるようだ。所得などに応じてどの程度の寄付をすべきかについても、しっかりと指標を示してくる。
4. 途上国の自助努力は置いておく
開発援助に関して色々な知識がある人は、楽天的過ぎる見解に思えるかも知れないし、開発途上国の人々の自助努力を過少評価しているように思うかも知れない。本書でも例示されている蚊帳やワクチンや初等教育などの費用対効果は高いので、実は開発途上国の人々自身で改善できる点である。東アジアの奇跡から、出生数を抑制して一人あたり資本装備率を上げ、直接投資を呼び込むことも有益だと分かる。何故かそういう事ができない理由が、開発援助の効率も低くしているように思える。シンガーは、そういう事は否定せず、「政策改革を条件として経済援助を実施」(P.152)と言っているが、リバタリアン的な援助の根拠づけが出来なくなるような気がする。功利主義的に途上国の政府の無能を、途上国の困窮者に負わせる理由にはならないのは分かるのだが。
5. 世間や本能に妥協した道徳律
シンガーは世俗的な人のようだ。その倫理的な議論からすれば、将来生産に結びつくような(学業を含む)投資を除けば、世界中の人々は公平に富を消費すべきだが、そこまで強烈な施策は求めない。また、自分の子供も他人の子供も区別すべきではないと言うことになるが、「進化の過程で得られた私たちの人間本性」に適合、もしくは妥協して道徳律を提唱する。また、世界の困窮者のために寄付をする倫理的義務があると言うのに、「援助を増やすために増税をしたり、その他の強制的な手段をとったりすることをここで論じたいのではない」で税などの制度的な強制は排除する(p.36)。理由が良く分からないのだが、政治的に挫折するような制度改革より、個人の意志で実行可能な事を勧めているようだ*2。
6. 同意できなくても便利な本
これを読んで開発途上国の人々のために寄付したくなるかは分からないが、開発援助に関わる研究をしている人々でも必ずしも明確に意識されない、開発援助をすべき理由が丹念に議論されていることが面白かった。また、倫理に関する議論は価値観の押し付け合いに陥りやすく、自分が思うことを言うのはためらわれる事は多い。そういう意味で著名哲学者の文献を引用できるのを、有難く思う人々も多いであろう。なお、数字が大げさになっているところがあるが、シンガーのせいではなく単なる誤訳らしい。本論に大きく影響はしないが、正誤表が出ているので、気になる人は確認を。
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