2018年8月27日月曜日

ミレニアム問題は概説するのも難しいことが分かる「数学ガール/ポアンカレ予想」

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深みにはまりそうな話の表面を、キチンと証明も説明もせずに泳いでいかないといけない数学読本を書くのは易しくはなく、数学徒でも理解するのに苦労する未解明問題や最近証明されたミレニアム問題だと尚更そうなるようだ。実にもやもやっとしたP≠NP問題の紹介本を読んだ事がある。結城浩氏の人気シリーズ最新作「数学ガール/ポアンカレ予想」も例外では無かった*1

1. ポアンカレ予想の説明

ポアンカレ予想と言う言葉に惹かれて読むと、がっかりすると思う。ポアンカレ予想は途中でも言及はされるが、第10章まではほとんど出て来ないし、第10章の説明もだいたい歴史的な経緯の説明に留まっている。ポアンカレ予想を含むサーストンの幾何化予想を、ペレルマンが特異点の問題を解決してハミルトンのリッチフロー方程式を用いて証明したことは紹介されるのだが、リッチフロー方程式がどのようなものか、どう用いるのかは実際問題、説明されない。

熱伝導微分方程式と似ていてるとして、熱伝導微分方程式を説明し出すが、リッチフロー方程式と熱伝導微分方程式の数学的な対応関係は説明されない。リッチフロー方程式を使って向き付け可能な閉曲面の曲率を変化させていけば、各点の曲率が一定に、つまり幾何学構造に応じて同じカタチになることをアナロジーを使って説明しているのだが、Gage–Hamilton–Grayson定理を紹介*2した方が良かったのでは無いであろうか。リッチフロー方程式が発散してしまう特異点の除去をする「手術」についても、なぜ「手術」をして良いのかは説明されない*3

リッチフロー方程式については全く知識が無いし、高難易度すぎて今後も何かを知ることも無いと思うが、これで騙されて良いのか心もとない。

2. トポロジーの紹介本として

一般書だから当然なのではあるが、トポロジー/位相幾何学の紹介本になっていて、微分幾何学に関連する話題も平行して説明する内容である。ポアンカレ予想と言う位相幾何学の問題を、ハミルトンとペレルマンが微分方程式を使って解決したのだから、こういうアプローチになったのであろう。話題は「曲がった空間の幾何学*4に近いが、宮岡本ほど磨き上げた構成にはなっていない。

連続写像や微分方程式の説明にページ数を割く一方、外微分の説明なく微小変化dx,dyが天下り式に導入されており*5、オイラー標数も説明されない。三次元球面上の三角形の角度と面積の話から、ガウス=ボンネの定理に持っていくわけだが、Girard's theoremと言う特殊ケースになってしまうし、これでは位相幾何学と微分幾何学はつながらない。ページ数に限度はあるので仕方がないのだが、逆像が開集合を開集合に移す写像が連続と言うところまでたどり着いていないし、リプシッツ条件なども出てこない。フーリエ級数展開がなぜ元の関数の近似になるかの説明もない*6

細かい部分も気になるところがある。ケーニヒスベルクの橋の問題は川の上流をさかのぼり、水源までいけばクリアできる…ような与太話が無いことではない。「(ガウス積分)を使ってf(x)が確率密度関数になっていることを証明する」(p.321)は謎な言い回しで、正規分布の確率密度関数の導出では、むしろ確率密度関数になるように、f(x)が積分したら1になるように構成するのに使っている。ペレルマンが「フィールズ賞を受けたが、受賞を辞退」(p.349)と言う日本語が気になる。「フィールズ賞に選ばれたが、受賞を辞退」ぐらいにして欲しい。

細部の粗探しをすれば色々あるとは言え、内容は、数物系の人であれば、どこかで学ぶ事が多い。数学ガールのキャラクターが、懐かしい話題に取り組む話と思っておけば、気楽な読み物となっている。むしろ、第9章まではごく常識的な大学数学の内容で、読むまでもなく理解していないオトナはヤバイと思って良いかも知れない。

3. 小説として

小説としては、シリーズ中、もっとも違和感が無かった。受験や進路に悩んでいる主人公が描写されていて、学力から進路に迷いや不安が無いミルカさんの存在や言説から焦燥感や苛立ちを覚えると言うのは、そう不自然に感じない。最初の方に《例示は理解の試金石》と言うシリーズ全体で連呼されているフレーズが出て来て(p.18)、北斗の拳の「お前はもう死んでいる」と言う名台詞は作品中1回しか使われていないことを作者に説教したくなったのだが、人物描写は抑制的でありテトラちゃんを「元気少女」(p.192)と一回形容したぐらいだ。髪の色は設定維持でそのままだが、従妹のユーリの猫語はほぼ無くなった。同級生なのに教師役のミルカさんを「饒舌才媛」と執拗に書いたりはしていない。

*1数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」も苦しそうではあったのだが、未到達感はさらに上を行く(関連記事:駄洒落は面白い「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」)。

*2非数学徒にもよく知られたミレニアム問題だったせいか、ポアンカレ予想は公開市民講座などの格好の題材になっていた。そこでの説明を眺めると、リッチフロー方程式をGage–Hamilton–Grayson定理の3次元への拡張として捉えているものがある(小沢(2016))。

Gage–Hamilton–Grayson定理は「平面上の閉曲線の各点において、曲率に比例する速度で曲線と垂直の方向へ移動するとき、その曲線はどんどん円に近づきながら一点に縮まる」(Wikipediaから借りてきた上図と紹介動画を参照)と言うもので、絵的に何をしたいのか分かりやすい。縮まないようにリスケールしつつ極限をとれば円になる。曲がった輪ゴムを丸く作業。

*33次元閉曲面をリッチフロー方程式に沿って変形させていくと、上手くカタチを整えられる場合と、発散してしまう場合があるそうだ。山口(2005)や小沢(2016)の説明から想像すると、上手くいくときの幾何構造は、双曲多様体/グラフ多様体になり、サーストンの分類に当てはまる。上手くいかないときは特異点を除去して双曲多様体/グラフ多様体に変形していける一方、特異点の原因になる連結成分もS3もしくはS2×Rの商空間でサーストンの分類に当てはめる事ができる。

*4関連記事:「曲がった空間の幾何学」で掴みは万全

*5関連記事:導関数dy/dxのdyとdxを説明するのは実は苦労

*6物理学を学ぶ学部生がよく引っかかる所である(関連記事:現代思想としての「物理数学の直観的方法」)。

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