2015年1月21日水曜日

戦国時代の社会構造と平和な社会への道

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歴史と言うと大河ドラマのように英雄伝になりがちなのだが、いつの時代であれ社会の大半の構造は庶民の生業から構築されている。戦国時代も例外ではなく、武将の言動を追いかけるのではなく、社会の土台となる村に注目しつつ、戦国時代の構造を書き表したのが「百姓から見た戦国大名」だ。

着目しているのは地味な部分だが、戦国時代が終息した理由についてまで話が展開されており、意外に壮大な本になっている。アフリカで発生している部族間抗争などを考えると、現代の問題に関して示唆するものも多い。

1. 村は最小の政治単位

明治に入るまで続くのだが、戦国時代の社会の最小単位は惣村(村)だった。村は村民に各種の義務や規律を科す最小の行政単位であり、村内の揉め事を解決する司法機能を持ち、さらには軍事や外交と言った行為も独自に行っていた。村内には家計もあるわけだが、日常的に飢饉が発生しているような苛酷な時代では家計は簡単に断絶してしまうものだったので、政治的集団にはならなかったようだ。

2. 外交や軍事も村単位

農地や山林の取り合いで、村と村は報復制裁行為(相当)から武力紛争(相論)を起こしていた。単なる喧嘩ではなく、弓、槍、鉄砲で武装(兵具)しており、他の村などから援軍を呼び寄せること(合力)も多々あったそうだ。村同士の抗争は、当時は合戦と表現されていた。領主に命じられて合戦を始めるのではなく、勝手にはじめて領主を巻き込む。

3. 村と領主の関係も外交的な結果

村と領主の関係は、ドライなものであった。領主は村の保護を約束する一方で年貢をとっているだけなので、紛争に助太刀しないと他の領主の元に去られたりもするし、適当な仲裁をすると村民に四散され年貢を拒絶される事もあったそうだ(逃散)。もちろん軍事的に領主が不利だと悟ると、あっさり村は敵方につく。年貢や賦役なども、交渉によって決められていた。

4. 大名による紛争禁止と裁判

領主(家中)を束ねる大名からすると、この状況は芳しくない。配下にある村や家中同士の抗争は、国力の低下を意味するからだ。抗争を禁止する一方で、裁判による紛争解決を試みることになる。また、村と家中の抗争を避けるために目安制などで、家中の不正を大名が感知できるようになど制度を整えた。家中間抗争は比較的早期に収まる一方で、村同士の抗争は江戸時代(四代将軍綱吉の頃?)まで続くわけだが、武力に頼らない平和解決が徐々に浸透することになった。

5. お互いを潰し合う社会の解消の成果は?

本書では、飢饉が理由で大名が他国を侵略していたと第1章で細かく議論されるのだが、徳川幕府で安定したあとに飢饉の影響がどうなったかが気になった。江戸時代にも飢餓はあったはずで、「大名たちは戦争で得られる果実をあてにしない、体質変換の模索をすすめていくことになる」とあるのだが、体質変換の方法と効果は述べられていない。しかし、飢饉が理由で侵略を開始したという説の説得力が変わって来る。そもそも戦争をしてお互いを潰し合うこと自体が無駄だった気もするのだが、史料が無いためか特に言及されていなくて残念だった。

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