2013年5月8日水曜日

水不足の砂漠のサバイバルから公平と効率を考える

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スコットランド在住の経済学者、林貴志氏が『能力が「自己責任」なら、成果主義は理にかなう』と、企業の人事担当者が飛びつきそうなタイトルで広く大衆を釣りつつ、厚生経済学を平易に紹介している。

この種の一般書としては「幸せのための経済学」があるが、ウェブで公開された日本語で読める文書は他に無いように思う。専門外だけれども経済学が何か気になる人には、一読の価値がある。

さて、こういう文書を読むと、本題とそれた事を考えたくなる。「正解」あるいは「経済学的に正しい」公平性概念などというものはあり得ないと前置きされているのに、反例的な事を考えてみたい。

遭難して救出を待つ間に、砂漠で水を配ることを考えたい。A、B、Cの三人がいて、それぞれ生存に必要な水が100L、50L、60Lと異なる。水を飲む事に効用があり、三人は生存に必要以上の水も喜んで飲む。水は限られているが、全員の生存が可能な量が210Lある。

70Lづつ配ると、合計で210Lを配るので効率的な状態になる。また、A、B、Cの配布量が等しいので、明らかに公平性は満たされている。交換可能としても、水と水を交換はしないであろう。Aは死ぬわけだが、それが効率的かつ公平な状態と言う事になる。

このような状況では、100L、50L、60Lと配るのが公平だと考える人が多いのでは無いであろうか。渇水状態の生存能力は自己責任と考える人は少ないであろう。Aが生き残ることの幸福度と、BとCが余分に水を飲む幸福度を比較して、前者の方が重大だと評価しているわけだが、ここでの比較は信仰なのであろうか。

ところで、林氏のエッセイのタイトルは編集部の渾身の作品だそうだ。成果主義と言う単語は、きっと人事部ホイホイになるはず。

1 コメント:

thinkingHoliday さんのコメント...

水を分け合う例で、ミクロ経済学の概念を当てはめるのは不適切と感じます。何故かというとミクロ経済学の議論では、ある経済主体が何も取引に応じなければ、財の保有量は変わらないので、厚生は変わらない、と仮定しているからです。例えば、純粋交換理論(エッジワースのボックスダイアグラムのレベルまでしか知りませんが)は、まさにそのような仮定があるように思われます。

水を分け合う例では、時の経過により、何も取引をしなくとも喉が渇いて厚生が下がってきます。でも、純粋交換理論はこのような場合をうまく分析できてないように感じます。

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