2025年8月18日月曜日

日本人は一年に一度は、1928年6月の張作霖爆殺事件から1941年12月の真珠湾攻撃、あるいは1945年8月のポツダム宣言受諾までの歴史を振り返るべき

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石破総理が戦没者追悼の式辞で反省という言葉を使ったことで「保守」界隈が怒っているのだが、どうも国語的に問題がある。反省は、罪を認めて償うというよりは、過去の過ちから学ぶという意味に近い。日本保守党の百田尚樹代表が「今を生きる日本人がその罪を背負う必要はありません」と非難していたのだが、過去に学ぶと言う事は、罪を背負うと言うことではない。

さて、百田尚樹氏は石破総理を批判する文章で*1

  1. 満洲が中華民国に帰属するものだとは言えなかったと主張し、満洲の一部になる遼東半島出身の張作霖率いる奉天軍閥が1912年から実効支配しており、1928年12月に張作霖の後継者の張学良が奉天軍閥を国民政府に帰順させている
  2. 1928年6月の張作霖爆殺事件から関東軍の暗躍が始まり、1931年9月の偽旗作戦・柳条湖事件から満洲事変を起こして中国国民党と交戦、その軍事力を満洲から排除して、1932年3月に日本の傀儡である満洲国の建国を行った
  3. 国際連盟が派遣したリットン調査団が、日本の満洲国のそれまでの利権の保持を認めつつも満洲国の独立を認めなかったため、1933年3月に日本は国際連盟から脱退していた
  4. 1933年5月に休戦協定が結ばれていたが、1937年7月の盧溝橋事件から日中が軍事衝突を再開し、日中戦争(支那事変)が始まっていた
  5. 「日本が戦った相手は、東南アジア諸国を植民地にしていたイギリス、フランス、オランダ、アメリカ」と、フィリピン、インドネシア、ベトナムでは反日ゲリラが発生した
  6. 「大東亜戦争の直接の原因は、昭和十六年八月のアメリカからの石油の全面禁輸」と、1941年7月28日の日本軍の南部仏領インドシナ進駐に対し、1941年8月1日にアメリカは原油輸出全面禁止が行われた
  7. 「ハルノートを受け入れれば…当時の世界のほぼ全ての有色人種と同じく、日本は欧米列強の支配下に置かれた」と主張し、ハル・ノートの内容はあくまで日本の対外拡張政策の停止を求め、蒋介石政権の承認と英国を含む列強の中国における権益の放棄への支持を求めたものである
  8. 第一次世界大戦後の民族独立の機運は世界中にあったこと、第二次世界大戦の終結とともに宗主国は植民地に戻ったが、日本の影響の無いインドやアフリカでも独立運動がおき、第二次世界大戦後は多くの独立国が誕生した

ことを無視した議論を展開している。日本のやらかしを矮小化する歴史否認主義。これらは日本史の教科書に載っている話ではあるが、物心ついたときは高度成長期の百田尚樹氏の世代では、あまり教えていなかったかも知れない。なお、上述の他にも、当時の日本の1人あたりGDPは英米の半分未満と満洲にではなく本土に資本投下すべき段階で、当時の経済界も満洲への期待・関心は薄かったが、軍部がなぜか満洲への進出にこだわったことなど、反省すべき問題は多々ある。

戦後の日本は1928年6月の張作霖爆殺事件から1941年12月の真珠湾攻撃までの教訓に基づいた(建前による)政策をとってきた。平和主義、相互主義、国際協調路線、文民統治、言論の自由などの基本政策の正当化にもなっているわけで、良いことではない。やはり年に一度ぐらいは、1928年6月の張作霖爆殺事件から1941年12月の真珠湾攻撃、あるいは1945年8月のポツダム宣言受諾までを反省すべきではないであろうか。

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