ついったーらんどでMMT信者が言及しているのを見かけて、経産官僚・中野剛志氏の「富国と強兵」を第3章まで拝読してみたのだが、藁人形論法だらけの経済学非難になっていた。無数にある論文のうちある幾つかに書かれている主張を見落としているのであれば仕方が無いと思うが、学部向けの経済学の教科書に書いてある事を見落としているのは問題だ。また、論理的に煮詰めて考えているのか怪しい箇所もある。
1. “主流派”経済学に関する多々の誤解
マクロ金融の教科書を読むと、貨幣の機能についてSamuelson OLG*1で説明している。このモデルでは消費財が腐敗するなどして貯蓄ができない世界を考えるのだが、生産した消費財を貨幣と交換することで貯蓄機能を得ることができる。つまり、標準的な経済学では、動学モデルで貨幣機能を考えている。また、貨幣は現在の消費財と将来の消費財を媒介するためのもので、無価値な紙切れでもよい。
マクロ金融を学んで来た人々が、中野剛志氏の経済学批判を読んだら、その藁人形論法ぶりに困惑するのは確実だ。「不確実性を想定しない主流派経済学の一般均衡理論では、貨幣がなぜ価値貯蔵手段になるのかが説明できない」(p.75)とあるのだが、Samuelson OLGで説明している。金属主義 vs 表券主義と言う軸を設けて、「主流派経済学が金属主義に立ち」(p.58)誤まった理論的帰結を導き出していると言う主張をしているのだが、Samuelson OLGではどちらでも良い*2。
学部のマクロ経済学もだいぶ忘れ去られている。金属主義 vs 表券主義と言う軸を設けているのだが、「総需要不足による不況、すなわちデフレ」(p.104)にあるか否かの方が問題な事に気づいていない。「総需要不足による不況、すなわちデフレ」(p.104)である限り、「政府の国債発行は、民間部門の資金量の制約から自由になる」(p.105)と言うのは、「主流派経済学からすれば到底受け入れがたいこと」(p.105)とあるのだが、AD-ASモデルやIS-LMモデルであれば、総需要管理政策は肯定される。
先日のエントリーと同じ話だが、「現代経済においては…(融資によって)銀行には準備預金を増やす必要が生じ、中央銀行がこの需要に対応して準備預金の量を増やす」(p.68—69)から、教科書の信用想像の説明は間違っており、主流派マクロ経済モデルも間違っているとあるのだが、これも藁人形論法である。NKなどの主流派経済モデルには往々にして政策金利しか入っておらず、準備預金の量で景気コントロールはしていない。
「主流派経済学の貨幣観は、その開祖たるアダム・スミス以来、金属主義の立場に立ち、物々交換の困難から貨幣が発生する起源を説明してきた」(p.61)とあるのだが、非マル経の金融論で貨幣観を教えている教員もテキストも無いと思われるので根拠が分からないし、アダム・スミスの説が現在も踏襲されているとは限らない。セイの法則も批判されているのだが、今の経済学にあるのは効用の逓減法則と局所非飽和による凸選好である。
ワルラス均衡/競争均衡も非難されているのだが、ミクロ経済学の教科書を引っ張り出して欲しかった。競争均衡に至る理由が無いと批判されているのだが、競争均衡(もしくは均衡を含む経済のコア)以外の点において取引を妥結すべき理由が全員に生じないし、少数が抜け駆けをして取引をする理由も無いことが証明されているのを忘れている。デフォルト(債務不履行)を考慮できないと言う批判も、確率pで財を渡す権利を売買すると考えれば組み込めるので、意味不明である*3。
「インフレ・ターゲット論の誤謬は…外生的貨幣供給理論に立脚している」(p.93)と言うのは壮大な勘違いである。流動性の罠対策としてのインタゲは、政策金利に関する時間軸効果狙いである。デフレが貨幣供給で解消できると信じていたらインタゲなど要らない。なお、主目的は金融政策の見通しをよくすることで、金融市場の変動を抑える事である。量的緩和を強調するリフレーション政策と、インフレ目標政策の見分けがついていないのであろうか。
「財政破綻しないためではなく、過度なインフレを抑止するための財政規範」(p.109)をすべしと言う話をしているのだが、主流派と言うか教科書経済学の議論だと財政破綻は高インフレを意味していることを把握できていない事が分かる。この辺、ツイッターランドで良く見かける藁人形論法だが。
pp.86—87の最後の貸し手云々の説明はよいのだが、「主流派経済学者の間でも異論はないであろう」とポツリと書いてあって、Diamond and Dybvig (1983)と言うミクロ金融の教科書の最初に載っているような話も知らない雰囲気が醸しだしている。ミクロ金融のテキストを読まなくても、ゲーム理論の教科書で解説を見かけることもあるのだが。
間違っているはずの主流派経済学のインフレ率決定理論のつまみ食いをしているのも気になった。「総需要が総供給を上回り、それが行き過ぎれば極端なインフレーションを引き起こす」(p.109)「労働組合や寡占企業による賃金・価格形成行動に起因するインフレ」(p.113)という言及はよいのだが、「仮に銀行が、不況下にもかかわらず何らかの理由によって国債を購入しなくなり、金利が急騰するような場合があったとしても、中央銀行が国債を購入することによって、金利の急騰を回避することができる」(p.104)と、貨幣需要の下落、貨幣の流通速度の上昇によるスタグフレーションの発生の可能性を無視している。昔と言うか今でも南米で起きているのだが。
資産価格の下落ショックがあると担保不足で不況が長引く事になるフィナンシャル・アクセラレーターの研究で知られるベン・バーナンキ元FRB議長が新自由主義者にされている。「(バブル)が崩壊したとしても、金融緩和政策によって比較的容易に景気を回復させ、経済を正常化することができる」(p.92)と考えていた可能性は、「金融政策が単独で達成できることと、財政政策との協調がある程度必要なこととをはっきりと区別していなかった」と言っているので、無いとは言えないが。
2. 参照している研究への誤解
MMT教祖Wrayの議論を参照しているはずなのだが、誤読している気がする。「レイは、政府は支出を操作して、完全雇用と物価の安定を達成することを目標とすべきと主張する」(p.117)とあるが、Wrayのペーパー*4にはインフレに関しては増税で対処しろと言っているし、"MMT does not rely on increasing aggregate demand in order to reach full employment"とも明言している。支出に雇用保証プログラム(JGP)を含むのであれば、完全雇用に関しては支出で対処する事にはなるであろうが。
実物資産の価値を含むB/S上の黒字/赤字と、資金循環表の黒字/赤字を混同することを起こしている(p.115)。MMT教祖のWrayは純金融資産/負債と言っており、何の前置きもなく黒字/赤字とはしていない。
これは間違いとは言えないのだが、「貨幣と租税」の節(pp.57—61)で、「銀行預金は、現金通貨との交換が保証されている。銀行預金が貨幣として使用されているのは、究極的には、現金通貨に裏づけられているからである」(p.57)としつつ、現金通貨が流通する理由を説明している。貨幣は銀行が創造するものと言うMMTの信用貨幣論から外れており、一貫性に欠ける。
『歴史研究によれば、「計算貨幣」や「信用」といった社会制度は、商品交換や金属貨幣の登場よりもはるか昔の古代バビロニア時代以前の文明において、すでに存在していたことが明らかとなっている』(p.61)とあるのだが、「21世紀の貨幣論」あたりの請け売りで騙されていないであろうか。この本、妙に記述が怪しいところがあり*5、信憑性が低い。原始社会では物々交換は行なわれておらず、物々交換が「計算貨幣」や「信用」に発展したことを否定する説はあるのだが、物々交換が商品貨幣を生み出した可能性は否定されていない。
3. 藁人形論法以外のおかしい点
「ありもしない財政危機に怯えて、国防努力を怠り、みすみす中国の軍事大国化を看過してしまった」(p.108)は、 根拠と主張の乖離(Non sequitur)と呼ばれる詭弁。日本が防衛予算を増やしても、中国の軍事予算の拡大は止まらない。それとも中国と同じ経済成長率が可能だったと言いたいのであろうか?
債務国と債権国の力関係の話しで、債務国の方が有利だと言う話をしているのだが、借金のカタにスリランカの南部ハンバントタ港を99年間リースすることになったスリランカのことを、だれかインタビューして欲しい。デフォルトをすると、その後の資金調達に苦労するようになるわけで、借金に困っても踏み倒せば良いと言えるかは、国際関係次第。
歴史的に「信用貨幣が国家をまったく介在させない場合もある」(p.64)と例を挙げる一方で、「理論的に検討するならば、信用貨幣論もまた、国家と深く関係していることが分かる」(p.64)と言われても困惑する。「民間取引における負債の確実な支払いを保証するには、国家の司法機能が必要となる」(p.66)は分かるが、「この司法機能は、貨幣にとって、ほとんど必要条件と言ってもよい」と言うのは論理の飛躍がある。評判によって債務契約が保証される場合もある。
「財政政策とは、借入れの需要の創出を通じて貨幣供給量を増やす政策」(p.96)としてしまうと、財政赤字は政府が財・サービスを提供しなくてもよいことになり、pp.96—97の90年代後半は日本の公共投資が減少していたから財政政策が不足していたと言う指摘が意味不明になる。財政赤字は拡大していた。減税は社会保障関連費は借入れの需要の創出にならないと言う主張なのかも知れないが。
(確率的なリスクではない)不確実性を数理モデルで表現できないと言うのは分からなくもないが、『主流派経済学が導入する「時間」の概念は、日常的な意味における時間ではなく、差分方程式や微分方程式という形で表現されるような論理的な時間概念である』(p.75)「数学的分析こそが厳密な科学であるという通俗的な科学観」(p.76)と、物理学あたりにも喧嘩を売っている。
4. まとめ
中野剛志氏は学部マクロ経済学の教科書に載っているAD-ASモデルが正しいと言う信念の表明以上のことはしないのだが、“主流派”経済学に対して藁人形論法を仕掛けることで、信念が正しいと論証した気になっている。経済学は教科書が分厚くなりすぎて、もうそれを読む気がしない人々が、非主流派経済学に流れ込んで、ありもしない主流派経済学の主張を非難しだす藁人形論法をはじめているのが問題ぐらいに思っているのだが、その傍証に使える本であった。我が国、経産官僚に悩まされている感がすごくある。
*2あえて言えば、表券主義では世界の終わりが来ない(と感じられる)か、世界の終わりに紙切れコレクターが必要になるが、ジンバブエの通貨の札束がオークションで出品されていたので、無問題であろう。
*3中野氏が参照しているグッドハート=トゥソモコス論文では一般均衡理論の一つの応用であるDSGEに限ってそのように書いてあるように読める。
*4関連記事:MMT教祖はバブル回避のために財政赤字を出せと言っている
*5関連記事:『21世紀の貨幣論』のヤップ島の話の胡散臭さ,タリー・スティックは中世イングランドでも貨幣として流通していない,貨幣経済の前は、物々交換経済ではなく、統制経済か贈与経済だった
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