文筆家になっていた御田寺圭氏の『「不快なポスターを許せない」保守化するリベラルの末路』と言うエッセイを読んでいて気になったのだが、リベラルが信奉しているのがリベラリズム、リベラリズムとは古典的自由主義と言う前提で話がされていてよろしくない。
ツイフェミが「保守的な風紀委員」になっていると言うのには異論はないし、表現物に関するツイフェミの議論が公正さを欠くと言うのには同意するのだが、かなり昔にリベラルの主義主張は古典的自由主義ではなくなっている。
1. ソーシャル化したリベラリズム
Tiwtterのフェミニストの皆さんの思想的背景を断定するのは難しいのだが、米国流リベラル、ソーシャル・リベラリズムの影響が強いとは言える。この立場では、公権力による市民の自由の制約はそう毛嫌いされているわけではない。ソーシャル・リベラリズムの観点からは、不快を理由にして規制をかけたり、公正さを破るような多様性を認めなかったりするのは不自然ではなく、この意味において日本のリベラルが近年変質としたとは言えない。古典的リベラリズムからは大きく変質しているのだが、100年ぐらい前からこの変質は観察される。
2. 表現の自由が公正に制約されうる
リベラリズムの本懐が公正さなのはそうであろうが、何をもって正義とするかの可能性の範囲は広くなっており、ツイフェミの皆さんの不快なものを認めないリベラリズムが公正さを欠くかは自明ではない。ロールズの議論を踏襲すれば、未知のヴェール*1の中で合意できれば、自由が制限されても公正(Justice)になる。つまり、「私もあなたも《ある種の表現》は許されません」と言うのは、少なくとも表面的には公平性があるし、《ある種の表現》が何であるかによっては公正さを持つことになる。実際、名誉毀損・誹謗中傷・公衆猥褻・プライバシーの侵害などは許されておらず、最近はセクハラ発言なども制裁されるが、公正な規制だと考えられている。もちろん、これらが文化的多様性を理由に免罪されることはない。街並みを維持する景観規制などに強く反対するリベラルも聞かない。
3. 言論の自由すら制限しようとするリベラルもリアルにいる
表現の自由の中でもっとも重要だと考えられる言論の自由に関しても、それに制約をはめようと言うリベラル勢力はネットの外側にもいる。米国では、古典的リベラリズムの論理で言論の自由はまもられているが、米国の大学では大学内で増えるマイノリティのためにスピーチコードと呼ばれる学内規定を設ける動きが、1990年代前半に広がった*2。それらのスピーチコードは裁判で違憲とされて流行らなくなったが、まさに風紀委員型ソーシャル・リベラリズムと言える。敵の口を封じるためのリベラルな市民活動もあり、暴力的なカウンター・デモ集団アンチファ(Antifa)が社会問題になっている。欧州だと、古典的リベラリズム自体が衰退している。ドイツには、憲法違反の組織のシンボルを芸術/科学/研究/教育以外で用いることを禁じた刑法第86条*3と言うのがあって、1950年代から現代まで時折、ネオナチや共産党が取締りを受けてきたが、リベラルな人々が批判を加えているとは(本当は反対しているのかもだが)聞かない*4。1960年には刑法第130条民衆扇動罪が導入された。フランスでも1972年に人種差別禁止法が導入され、イギリスでも2000年の人種関係法で公衆の前でヘイトスピーチを行うことが禁じられている。
4. ツイフェミの皆さんのリベラルとしての問題点
こういうわけで、不快な表現を認めないこと自体は(ソーシャルな)リベラリズムにはなり得るし、風紀委員型リベラリズムを実践している人々はネットの外側にもいる。ネット界隈の風紀委員型ソーシャル・リベラリズムは異端とは言えない。
ツイフェミの皆さんがリベラルとして問題があるとすれば、彼らが感じている不快さに普遍性が無さそうな事の方である。未知のヴェールの中で合意できない。これだけアニメやマンガが男女問わず受容されている時代なので、アンケートなどの補強もなくツイフェミ以外の女性一般が不快に感じると主張されても説得力が無い*5。屁理屈と言うか、学術研究を曲解した非難*6、未消化の道徳規範を無理に使った非難*7も見られる。そもそも批判している表現物をよく見ていないので、作画ミスなのか作画技法なのかの区別もついていない*8。ここしばらくは、ツイフェミが騒ぎ立てないように注意するための公共広告のガイドランを持ち出して主張の正当化を試みるところに終始しているようだ*9。
*1それぞれの立場をすべて忘れて、人々が協議できると言う魔法の道具。これを使って私利私欲を忘れた人々が合意することが、ロールズの意味での社会的正義になる。
*2明戸隆浩 (2014)「アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈 : 90年代の規制論争における公民権運動の「継承」」アジア太平洋レビュー,11号,pp.25–37
*3§86a Strafgesetzbuch
*4法律は、中道右派の保守勢力CDU/CSU政権時に策定されており、リベラル勢力がつくったものとは言えない。
*5(経済的理由もあるにしろ)景観規制などもあるし、“お気持ち”も数が集まれば無視すべきではない事には注意されたい。
*6メディアにおけるジェンダー表現は人々の性別認識から自然に見えるように作られるというアーヴィング・ゴッフマンの話を、メディアにおけるジェンダー表現が人々の性別認識を定めると言う風に、因果を逆転して解釈している(是永 (2019))。
*7女性キャラクターはモノだからモノ化しないが、性的モノ化と言う概念で非難を繰り広げている(関連記事:過去のフェミニズムの議論からは、性的モノ化された萌え絵が有害の可能性は低い,主題「スザンナと長老たち」で比較する、性的モノ化された裸婦画とそうでない裸婦画)。
*8関連記事:ラブライブ!高海千歌のJAなんすんの西浦みかん大使のポスターのスカート描写について
*9「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」が良く持ち出されているが、最初に「内容以前に表現への反感を招くようでは、施策への理解や協力は得られません」とある一方、反感を招く以外の弊害は指摘されていない。つまり、この手引を引用しての批判はつまり、「私が非難するのだから、公的広報として不適切。ゆえに、私の非難は正当。」と言う論点先取と言うかトートロジーと言うか、ナンセンスな議論になる。
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