2019年12月16日月曜日

主題「スザンナと長老たち」で比較する、性的モノ化された裸婦画とそうでない裸婦画

このエントリーをはてなブックマークに追加
Clip to Evernote
Pocket

先日、ジェンダー社会学者の小宮友根氏のエッセイ*1が炎上していたが、批判すべき箇所がちょっと違うというか、表現規制反対派の皆さんやフェミニスト嫌いの皆さんが、小宮氏が参照していたイートンの議論に関して上手く騙されている気がするので指摘したい。

小宮氏はEaton (2012)*2をヒントとして性的モノ化の議論を組み立てたとしているが、小宮氏が提案する性的モノ化の基準とイートンの基準は乖離がある。イートンは描かれた裸婦の主体的な意思が見えないことを基準にしている一方、小宮氏は女性の主体的な意思が一部の方向にないことを基準しており、両者の基準の乖離が大きい。

1. 2つの「スザンナと長老たち」の比較

イートンは数多くの名画を挙げて批評を行っているが、第3節The Male Gazeの最後の方(pp.295–296)にある、同じ主題「スザンナと長老たち」の性的モノ化されている絵画とされていない絵画の比較が、性的モノ化された絵画が何であるか大雑把に理解するのに役立つ例となっている。イートンは、ティントレットの絵は性的モノ化されているが、アルテミジア・ジェンティレスキのはそうではないと説明しており、具体的に比較できるからだ。

「スザンナと長老たち」と言う主題について説明しておこう。沐浴中の人妻スザンナは好色じじいの長老2名に「言う事を聞かないと、お前が不倫をしていたと告発する」と脅迫されるものの要求を拒絶、長老たちに虚偽の不貞罪で告発されるものの、裁判で長老たちの証言がおかしい事が分かり、長老たちの方が処罰されると言う、旧約聖書の補遺もしくは外典にある準強制性向未遂事件。スザンナが不当な脅迫に屈さなかったところが、重要なポイントになる物語だ。

上の図は、比較されている2枚の絵に、イートンの説明を付け加えたものだ(クリックで拡大)。

現代の人々から見ると、左のアルテミジア・ジェンティレスキの絵の方が官能的に見えるであろうし、女性の意思、主体性が踏みにじられようとしている。しかし、スザンナは長老2名を拒絶しており、主体的に振舞っている。一方、スザンナの細部の描写は部分部分を見ると完璧な美しさではなく、理想的ではない。鑑賞物としては、劣る存在だ。つまり、女性の性的魅力よりも、女性の能動的行動が前面に出ていると言う意味で、アルテミジア・ジェンティレスキの「スザンナと長老たち」は性的モノ化されていない絵画になる。

右のティントレットの絵は動きがなく、現代的には性的な描写に思えない。しかし、この絵のスザンナはただ覗き見られる存在で、物語の重要なポイントである不当な脅迫に屈さなかった主体性は示されていない。また、色白で金髪とステレオタイプの美しさを備えており、当時の基準で理想的である。さらに、スザンナは鏡で自らの性的魅力を確認しており、また二人の長老もスザンナの美しさに見惚れており、スザンナが鑑賞物になっていることが表現されている。理想的な外見の裸婦が描かれているだけであり、スザンナの主体性が描写されていないので、ティントレットの「スザンナと長老たち」は性的モノ化されている絵画になる。

2. 性的モノ化でイートンが重視する条件

イートンの性的モノ化の議論において、性的魅力が強調されていることは重要ではない。あるべき女性の主体的な意思や感情が描写されないことが、性的モノ化の重要な条件になる*3。実際、イートンが性的モノ化されているとする絵画の裸婦は無表情に近いか、自身が裸体であることを忘れた振る舞いをしている。一方、表現される意思や感情といった主体性に関しては、特段の限定を置いた記述は無い。恐怖、嫌悪、緊張、戸惑い、期待、覚悟など、あらゆる感情表現が、主体性の表れと解釈するべきであろう。モノ化された存在、美しいだけの鑑賞物であれば、どのような感情も抱かないはずだからだ。

3. イートンと小宮氏の議論の相違

小宮氏はエッセイで「意図しない/望まない性的接近のエロティック化」を性的客体化の表現技法のひとつとして挙げているが、アルテミジア・ジェンティレスキの「スザンナと長老たち」はまさにそういう絵であり、イートンの性的モノ化の議論と合致しない。小宮氏は、偶発的にヒロインの裸体や下着を主人公が見ると言う所謂「ラッキースケベ」の描写をこの性的モノ化の表現技法の代表例としてあげるが、イートンの議論からは肯定するのが困難だ。意図していなかった偶発的事態で、女性キャラクターが胸や陰部を隠す動作の描写は、羞恥心を感じる主体性の表現である。小宮氏がそうあるべきと図中で主張する恐怖や嫌悪だけが、主体的に感じる感情ではない。

イートンの議論とは異なり、小宮氏の議論は女性が抱くべき感情、女性が発揮すべき主体性の方向を、小宮氏が好むように定めている可能性が高い。何はともあれ、小宮氏のエッセイでは「フェミニスト分析美学者のアン・イートンが「(女性)ヌードの何が悪いのか」という論文でおこなっている分類をヒントに…」と宣言してあるので、イートンの議論と小宮氏の議論に整合性があるように思えるが、実際の論の組み立ては違う*4。何が性的モノ化になるかと言う点だけではなく、性的モノ化されたマンガやアニメの表現物が有害か否かにおいても、イートンの議論と小宮氏の議論の差異は大きい*5のだが、表現規制反対派の皆さんやフェミニスト嫌いの皆さんがよく認識していないのが気になるところだ。

*1炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか(小宮 友根,ふくろ) | 現代ビジネス | 講談社(1/9)

*2Eaton (2012) "What's Wrong with the (Female) Nude?" In Maes and Levinson "Art and Pornography: Philosophical Essays," Oxford University Press

*3イートンの独自見解と言うわけではなく、初期のポルノ規制推進派フェミニストのマッキノンやドウォーキンにおいても、性的モノ化は「女性をその性的機能やセクシュアリティによってのみ評価し、男性の空想や理想を現実の女性に押しつけることを意味していた」(江口 (2006))。

*4両者が合致しない点は本文中に挙げたものではない。例えば、小宮友根氏の議論では、性的行為を連想させるモノや仕草を描くことを性的なメタファーとして、性的モノ化をもたらす表現としているが、Eaton (2012)では作品が視覚的類似性と近さを通じて、人物と自力で動かないモノの類似性を示唆することを、視覚的メタファーによる性的モノ化としている。

小宮氏は類型化した女性の表現手法を「「女性」を性的に表象するときに繰り返し用いられるパターン化された手法であるという点において、これらは単に個別の女性を描くためのものではなく、「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」としているが、イートンの裸婦画批判の場合は、性的モノ化になる表現が繰り返し用いられているだけではなく、そうでない表現がほとんどないこと、さらに描かれた裸婦自体が一人の女性の個性を描いたものではなく、複数の女性モデルの身体を合成するなど没個性的で総称的(generic)である事を理由に、裸婦画の女性が女性一般を表していることを主張している。

*5関連記事:過去のフェミニズムの議論からは、性的モノ化された萌え絵が有害の可能性は低い

0 コメント:

コメントを投稿