2025年9月28日日曜日

なぜポリコレ汚染を研究するのは難しいのか

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学生が映画やゲームのポリコレ汚染で論文を書きたいと言ってきたら、まずそれを忘れて作品をよく分析しろと指導すると言う話に、表現規制派フェミニストを非難してきた界隈(表自界隈)から批判が集まっていた。ポリコレ汚染で論文を書くのを止めることが、ポリコレ汚染を助長すると考えたようだ。

だが、この指導は適切だ。なぜならば、ポリコレ汚染で論文を書くのは技術的に難しい。ポリコレ汚染をこの言葉を使いたい人々の直観にあうように定義するのは困難だからだ。

1. 表現規制以外のポリコレの悪影響は考えられていない

映画やゲームの中にポリコレ要素があるのは確かだ。性表現や暴力表現には、法規制もしくは業界自主規制がある。マイノリティーへの偏見や蔑視を煽る行為は、それが作品のテーマでもない限り、制作者は避ける。多くの人々に楽しんで欲しいからだ。アジア人蔑視にならないように、アジア人役をアジア人が演じるのもポリコレだ。しかし、これらを汚染と言うのは難しい。

1990年代ぐらいまでの話で、everyoneを受ける代名詞がhis/himではなくてtheir/themになっていればポリコレの悪影響だが、そんな作品は無さそうだ。近年の刑事/探偵ドラマで人種的マイノリティーが犯人になりづらいと言う話はありそうではあるが、これを非難している声も聞かない。

無理やり多様性(diveristy)を入れる試みを、ポリコレ汚染と定義するのはどうであろうか。ポリコレだと非難を浴びた作品の幾つかでは、人魚姫など白人であった役の設定を黒人に変更している。しかし、多人数の主要キャラクターの中にマイノリティーを含めるようなポリコレはあるかも知れないが、一人しかいない主人公をマイノリティーにしろと言うポリコレは無い。

米アカデミー賞は2020年から作品賞に限り、①主要キャラクターの俳優、②制作スタッフのリーダー、③制作氏スタッフのアシスタント、④広報もしくは営業部門の4つのうち2つで、女性もしくは人種/民族的マイノリティーを起用することを条件に入れたが、ヒロインと広報の女性がいれば条件を満たしてしまう。大学生の自主制作映画でも無い限り、クリアするのは容易な基準だ。

2. ウォーキズムの悪影響は直観にあうように定義するのが難しい

制作者がウォーキズムにかぶれて無理やり多様性(diveristy)を入れる試みと概念的に定義するのは可能性がある。しかし、操作的な定義を与えるのが難しい。

シリーズものの主要キャラクターの性別や人種を変えるのは、大概の場合は無理が出る。ファンに固定観念が生まれているからだ。実際、議論になったディズニーの実写版『リトル・マーメイド』(2023年)が当てはまる。しかし、織田信長に使えた黒人の弥助を侍として主人公に採用したゲーム『アサシン クリード シャドウズ』(2025年)は、シリーズものとは言え主人公の設定が固定されてもいなかったのに、ポリコレ汚染の例としてあげられていた*1

ウォーク要素があれば、ウォーキズム汚染とするのはどうであろうか。女性キャラクターが活躍する映画はウォーク映画だと非難を浴びることがある。映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』がそうだ。アニメ『リコリス・リコイル』にはホモセクシャルな主要キャラクターが出てきて、それを否定的に描くこともなく物語が進行するので、ウォーク作品と見做される可能性がある。しかし、表自界隈の人々がこれらを汚染された作品と考えているかと言うと、そうではない。

こういうわけで、概念的には言葉にできそうな気もするが、過不足ない操作的定義を与えるのは難しい。

3. まとめ

ポリコレ汚染は、今のところは上手く言葉で説明されていない概念だ。むしろ、上手く定義できないところに注意がいる。表自界隈の少なくない人々が、自分が気に入らないキャラクター設定を不当だと思っていることの反映でしかない。

表現規制派フェミニストも性的モノ化(性的客体化; sexual objectification)、性の商品化、性的消費、性的搾取といった言葉を意味を考えずに乱用しているきらいがあるが、表自界隈も似たような側面があると言うことだ。表自界隈の表現規制派フェミニスト批判に、小難しい用語を使わずに単に嫌いだと言うべきというのがあるが、表自界隈も同様の問題を抱えてしまっている。

*1なお、よく考えるとポリコレともウォーキズムとも関係なさそうな話である(関連記事:安土桃山時代に日本にいた黒人の英雄化は、DEIともポリコレともウォークとも関係ないよ

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