2021年7月17日土曜日

功利主義で表現の自由をどこまで擁護できるか

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…と言うネット論客の青識亜論氏から御題があって、だらだら話していたところをまとめておきたい。幾つか観点を追加している。

功利主義は人々の快苦の多寡や選好の強さを合計する快楽計算によって物事の是非を判断し、表現の自由も快楽計算によって判断する道徳的立場。ある表現物の是非を考える場合は、その表現物が誰かに与える快楽と、その表現物が与える苦痛の大きさを比較して、快楽が大きければ善しとする。

物事の良い面と悪い面をそれぞれ評価して是非を定める帰結主義の代表。単純明快な判断基準が特徴だが*1、18世紀にベンサムが原案を考案したあと、19世紀のシジウィックとミル、20世紀のブラントとヘアと受け継がれ、発展してきた。実社会に対する影響も大きく、J.S.ミルの『自由論』が古典的自由主義の礎になっている他、ここ何十年かは応用倫理学者のピーター・シンガーが安楽死や動物の倫理を考えるのに使っている*2。最近は幸福度調査が盛んになったが*3、これも功利主義の影響と言ってよいであろう。公共の福祉に反さない限りは自由と言う幸福追求権も、古典的自由主義、つまり功利主義の影響を受けたものだ。

1. 表現物の快苦の計算は徐々に精緻化

青識亜論氏から見て難点が2つあるそうだ。1つは、あらゆる表現の自由が支持されないこと。しかし、侮辱や名誉毀損や実在児童ポルノなどは規制すべきであろうから、あらゆる表現の自由を擁護しない方が適当であろう。まさか実在児童ポルノを自由にしろとは言わないよね。もう1つは、表現物が与える快楽と苦痛の総量の計算が実際問題できないこと。この点は、昔から批判されている*4。しかし、まずは主観的かつ大雑把に計算してしまって問題ない。

非実在児童ポルノを例に実際に考えてみよう。被写体はいないので不利益ゼロ、小児性犯罪者を増やす効果は確認されていないので不利益ゼロ、非実在児童ポルノ(と言うか童顔キャラ)が好きな人々の利益アリで、性的羞恥心を害する効果は嫌いな人はそう見ないから極小、よって快楽計算はプラス。よって、非実在児童ポルノは認めるべき。計算について異論は出るであろうが、地道に根拠を積み重ねて客観度をあげていく。意思決定理論、主観ベイジアン的なノリ。実際、有名功利主義者のピーター・シンガーは、新しい科学的事実が出てくると、結論を微妙にだが変えている。この世の快苦は逐次ベイズ推定される。

様々な主体の利益と不利益を推定し続けていかないといけないので、知識のアップデートを続けていかないといけない。そういう意味では、労力のいる道徳哲学と言える。

2. 「実害がなくても存在するのが許せない」は影響しない

青識亜論氏から「実害がなくても存在するのが許せない」と言うのにどう言い返せばよいかという話があった。そんなゼロε近傍の不利益*5は無視しても良さそうな気もするし、実際に保護法益でそんなことは認められた事はない*6。つまり、少なくとも法曹は、取るに足らない苦痛だと見なしている。「存在するのが許せない」と言う苦痛をある程度考慮する場合も、規則功利主義を考えれば表現の自由を支持できる。誰かが「存在するのが許せない」表現物を禁止するルールの是非を考えよう。大抵の表現物は、誰かにとって「存在するのが許せない」ものだ。ツイフェミは萌え絵の存在が許せないが、オタクはツイフェミのその非難の存在が許せない。そんなルールを導入すれば、あらゆる表現物がなくなってしまい、不利益が甚大になる。

3. 多数決で規制対象を決めるルールは肯定されない

多数が規制に賛成しているモノを例外的に規制するルールはどうであろうか。快楽計算は快苦の総量が問題で賛否の数とは違うから、肯定すべきとは言えない。さらに、例外的な規制を積み重ねることで、大部分を規制してしまうリスクがある。

例えば、ポルノはみんな大好きなので例外にはならないと思うが、ポルノの中の非実在児童ポルノ(と言うかエロアニメ/ゲーム)は不人気で規制されることはあるであろう。制服モノなど、他にも規制されそうなモノはありそうだ。不人気だからと言ってどんどん規制していくと、ごく普通の綺麗系のポルノしか残らないことが予想される。ひどいときはAとBが賛成してCの趣味を規制し、BとCが賛成してAの趣味を規制し、AとCが賛成してBの趣味を規制して、万人の趣味が規制される。自分の楽しみと引き換えに他人の楽しみを封じて、快楽計算がプラスになるとは思い難い。結局は不利益が甚大になる。

仮に非実在児童ポルノで止まったとしても、取り締まる警察の労力は歳出拡大になるので納税者の苦痛だが、自分が見もしない非実在児童ポルノを無くす快楽がそれを上回るかは怪しい。ラディカル・フェミニストの皆さん、見てもいないポルノを非難していて話がおかしくなっていたりするそうなのだが、ポルノに興味が無い人も同様に投票することになる。多数決ルールだと物凄く雑な規制になりうることも問題だ。

3. 法律と異なる結論が出たら、法改正を訴えるべし

青識亜論氏が言及した例が児童ポルノだったので、実在児童ポルノと非実在児童ポルノ(と言うかエロアニメ/ゲーム)を考察してみたが、功利主義だと実在児童ポルノは規制すべしになって、非実在児童ポルノは容認すべしとなるハズ。ネット民の直観とあうところであろうし、児童ポルノ規制とも整合的。なお、ポルノ一般の規制とも整合的であれば良かったのだが、残念ながらそうではない。ポルノ規制は保護法益がはっきりしない規制で、功利主義者が納得できるようなものでは無かった。性的羞恥心を害すると言われても、好んで見ない限りは遭遇しない。しかし、徐々に緩和されている面もあるし、過去の判決での意見も割れている。功利主義者は、不適当な規制と批判すべきのようだ。快苦の計算の項目すら曖昧なのだから。

4. カントの義務倫理や徳倫理よりは扱いやすい

青識亜論氏のカントの義務倫理の理解に対する疑念から発展した話題なので、三大倫理の他2つと対比しておこう。

  • カントの義務倫理は傾向性(≒本能)と因果律から自由な理性が定めた道徳律がカントの議論の土台なので、ポルノなどを考えると規制すべしとなる*7。傾向性に関係なく楽しめる部分が大きいと言い張らないと正当化できない。また、この理性が定める道徳律の遂行を目的とするために、目的刑論が全否定されて絶対的応報刑論になったりして現代社会と真っ向から対決するので、受け入れるのは難しいかも知れない。義務倫理の現代版ともされるロールズ主義は高潔すぎる理性は要求しないが、あらゆる肉体的社会的立場を忘れる未知のヴェールの中の人々が合意するであろう社会ルールを正義とする。政治言論の自由は尊重するのだが、利害が対立する場合は、多数の快楽に関係なく少数の苦痛を無くすべしと言うマキシミン原理を採用している。ポルノは被写体が性暴力の犠牲者である事があるので、予防原則で強めの規制になりかねない。
  • 徳倫理は、世界で普遍的に見られる古い倫理観で、保守の倫理。1980年代ぐらいから、ソーシャル・リベラリズムの倫理として知られるロールズ主義批判として、学術界隈で復権してきたそうだ。日本ではサンデル教授*8が知られているが、面白い講義を放送して、本の売上を稼ぐ*9倫理ではない。卓越者に習って研鑽していくと本当の幸福を知ることができるような話なので、徳のある人がポルノ好きでないと禁止しておけと言うことになりかねない。わいせつ物頒布等の罪の善良な性的道義観念に反すると言うのは、徳倫理的だ。

功利主義は、義務倫理や徳倫理よりは、表現の自由を擁護しやすいことが分かる。

他はどうであろうか。経済学で使うパレート改善、無羨望配分、PS福祉指標などは、表現規制の問題では、ちょっと役に立ちそうにない。法哲学者ロナルド・ドウォーキンの「自由を得るために払う犠牲によって、たとえ本当に痛みで苦しまなければならないときでさえ、自由には、それと引き換えに得るだけの重要性が十分にある。」を借りてくると、実在児童ポルノもですか? — みたいな事になって困る。ノージックの権原理論で、自分の所有物は好きに処分してよいと言うような話を持ってくる事ができるかも知れないが、税制など他の問題で賛成できないと一貫性の問題で困る。

5. 我田引水、牽強付会は辞めましょう

青識亜論氏が「使えるところだけつまんで使うでいいと思いますけどね。思想なんか。」と言っていたのだが、それは権威を笠に着た(Appeal to Authority)文脈無視の切り出し論法(Quote mining)、つまり牽強付会と言う詭弁。対話を求める人のやり方ではない。そして、三段論法の大前提を無視して結論だけとってくるような状態になって簡単に論理的に破綻するわけで、論理なき主張になる。明示的に前提を変えて望む結論を得た場合は青識亜論理論であって、過去の偉人の議論ではない。

こういうわけで、表現の自由を重視する人は、やはり功利主義を土台にするほうが楽だと思う。なお、論敵のツイフェミを一発で論破する「銀の弾丸」のような論理を組み立てるのであれば、ツイフェミも受け入れられる道徳的基礎を探さないといけない。往々にして論理破綻を恐れない徳倫理が混じったロールズ主義に見せかけた直観主義なので、そんなものは無いと思うが。

*1なぜか多数派の利益追求のための道徳、弱者切捨てのための道徳と勘違いされる(関連記事:社会学者が功利主義への誤解を振り撒く)。

*2関連記事:これから「殺人」の話をしよう

*3関連記事:厚生労働省の官僚に読んで欲しい「幸福の研究」

*4効用の個人間比較不可能性を前提に理論を組み立てる経済学者には疑念を持たれている。また、ノーベル賞受賞経済学者のセンには、快苦を強く感じる快楽名人の都合によい基準になってしまう欠点を指摘している。

関連記事:幸せのための経済学 — 効率と衡平の考え方

*5それ以上考えると、不利益がε未満に思える思考時間δがある。

*6昭和63年の商業宣伝放送差止等請求事件で、見たくないものを見ない権利(他者から自己の欲しない刺戟によつて心の静穏を害されない利益)が侵害されていると言う主張がされたことがあったのだが、ちょっと目に入る程度では比較衡量をして受忍範囲と棄却になった。目に入っても不愉快と言うだけでは排除にならないわけで、侮辱や名誉毀損やプライバシー侵害にでもならない限り、目に入らないところで存在することが問題とされる可能性は低い。

*7関連記事:カント先生とセックス (1) いちおう「人間性の定式」の確認 | 江口某の不如意研究室

*8関連記事:マイケル・サンデルの経済学批判

*9関連記事:リベラリズムの倫理を批判し共同体主義を説く本『これからの「正義」の話をしよう』

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