2021年7月12日月曜日

ペドフィリア(小児性愛)は犯罪因子と蔑視しておいて問題ない

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BUSINESS INSIDER JAPANの記者の竹下郁子氏がペドフィリアの人々(小児性愛者)を犯罪者と同様のように言及したそうで*1、児童性虐待の実行前であれば犯罪者ではない、自制できるペドフィリアもいると非難されていた。しかし、用語定義と現在の社会倫理から、ペドフィリアは犯罪者予備軍と見なさざるを得ないし、犯罪者予備軍と蔑視することは公益に資する面もある。

1. 精神医学におけるペドフィリアは犯罪因子でしかない

ペドフィリアは精神医学で定義された用語で、性嗜好障害の一種とされている。つまり、(二次性徴を迎える前、操作的には13歳未満と定義される)児童と性行為をしたいと思い始め、成人女性との性行為などでは性欲を満たす事ができず、欲求不満で日常生活に支障をきたすか、児童との性行為を試みるような人々の性嗜好のことだ。児童との性行為はもちろん、児童ポルノも規制された現在では合法的にその欲求を満たす事が難しく、常に犯罪衝動を抱えた存在となる。生得的な傾向性、もしくは本人が左右できない経験からの気質であろうが、社会不適合なのは変わりない。

竹下氏を批判していたネット論客の青識亜論氏は、異性愛者は必ず性的暴行を犯すと言うような議論だと主張していたが、異性愛者が合法的に性行為で性的欲求を充足するのは容易だ。他の少数派の性的嗜好と類比するのも難しい。青識亜論氏は、かつて違法であった同性愛とペドフィリアを比較することで小児性愛を擁護していたが、小児性愛が児童に被害を与える蓋然性が高い一方で、判断能力のある二人の合意の下の同性愛では被害はどちらにも生じない。小児性愛が違法になり、国外で違法だった同性愛が合法になったのは理由がある。

2. 違法/不徳な欲求を持つのは不徳

違法/不徳な欲求を持つことを不徳と考え、蔑視するのは広く行われている行為だ。嫉妬深い人、強欲な人は不徳とされているし、サイコパスな上司の悪口はネット界隈で広く見られる。これらは振る舞いだけではなく、内面も非難の対象だ。それどころか、自信の名声を上げるために慈善事業に勤しむ金持ちは、偽善者と罵られる。他人の内面は気にしないよと思っている人も、逮捕・検挙されなければ横領したいと思っている人を、経理担当者にしたいか考えて欲しい。監査がしっかりしている会社でも嫌なはずで、つまり他者の内面を気にしている。

3. 不徳への蔑視発言は許容されている

蔑視するだけではなく、蔑視を口に出すのは不正であろうか。前述の通り(誰かと特定せずに)不徳な性格や性質を非難することは広く行われているし、受け入れられている。「逮捕・検挙されなければ横領したいと思っている人を,経理担当者にしたくない.」と言っている人がいたとして、横領したい人蔑視だと非難するかと聞かれたら、放置すべきとする人が大多数であろう。不徳とはいえない性的趣向の蔑視発言をするのが不正だとしても、小児性愛は不徳なのだからそれよりは許容されるべきだ。内面の自由があると主張する人もいるが、公権力が内面を理由に介入しているわけではないから関係ない。

4. 自制可能な小児性愛者の性嗜好を尊重すべき理由はない

青識亜論氏はまた、自制できている(精神医学の文脈ではなく広義の)ペドフィリアへの侮辱になると主張していた*2が、自制できている限りはペドフィリアである事は基本的に露見しないので、個人が犯罪者予備軍扱いされるわけではない。処罰されたり社会的制裁を受けるのが嫌なので、その欲望を容易に抑えられる広義のペドフィリア(以下、自制可能ペドフィリア)は、性嗜好を隠して生きていくことができる。実際、過去に国外への児童買春ツアーに参加した人々が、その後、国内で逮捕・起訴された事例は聞かないので、その多くは国内では自制可能なペドフィリアであった蓋然性が高い*3。児童に悪影響がある行為はしないと自律し、小児性愛の欲求を自制している道徳的な人々もいるであろうが、隠し通せるのは同様だ。

ペドフィリア蔑視が、自制可能ベドフィリアの自制を促す効果も期待できる。蔑視されることで小児性犯罪が処罰されることや、社会的制裁が強いものだと認識すれば、罰を恐れるタイプの自制可能ベドフィリアの自己コントロールは強まる。そもそも罰を恐れるタイプはばれなければ実行するわけで、侮蔑に値する存在だ。道徳的な自制可能ベドフィリアも、児童への悪影響もしくは人々がそれを危惧していることを知ることで、道徳を養成する必要がある。蔑視は自制以上のものをもたらす可能性もある。自制可能な小児性愛者は心理学で言う代償行動で満足できる人々なので、徳倫理の議論に沿って、小児性愛ではない幸福を知る卓越者になることも可能かも知れない。

自制可能ベドフィリアの性嗜好を、個性として尊重すべき理由はない。個人の嗜好は尊重されるべきと言う「リベラルな考え方」を安易に適用して、小児性愛者の性嗜好も尊重すべきと言う話になっている気がするのだが、結論だけ見ていると話がおかしくなる。カントの義務倫理でも、傾向性(≒本能)から自由に自己を律する人に尊厳があるのであって、そうでない人々も尊敬しろと言う話ではない。

追記(2022/05/02 02:15):自制可能ベドフィリアと表現したが、DSMやICD-11に準じて非排他的なベドフィリアとする方がよかった。

5. 蔑視しても無闇やたらな排斥は避けるべき

ペドフィリアは侮蔑すべき不道徳な人々という事になるのだが、無闇やたらな排斥は避けるべき。まず、ペドフィリア的な嗜好があっても、自制可能な人々を含めた小児性愛者とは限らない。18禁ゲームの中の児童キャラクターが大好きでも、現実の児童に性欲を抱けるケースは稀ではないであろうか。女児型ラブドールが話題になったこともあったが*4、あれも現実の児童の代替物になっているかは分からない。次に、児童性愛者を無闇に排斥すると、児童性愛者の人権を侵害する事になるし*5、自暴自棄になって本当に児童性虐待をするように追い込む可能性もある。ペドフィリアが女児型ラブドールで性欲を満足させることができるのであれば、社会はそれを歓迎すべきだ。ペドフィリアと言う性嗜好は侮蔑しつつも、自制している小児性愛者は包摂するようにしておく方が、世の中は上手く回る。

追記(2022/05/02 02:08):すべてのペドフィリアが児童性虐待を犯すわけではないと言う指摘があるのだが、小児性犯罪者の35%がペドフィリアと言う調査(Seto, Cantor and Blanchard (2006))があり、これは全人口に対するペドフィリアの比率から考えてとても高い。人口に占めるペドフィリアの率が1%未満だとすると、相対危険度は53以上になる(注意:ペドフィリアと非ペドフィリアに差異がなければ1)。また、すべてのペドフィリアが児童性虐待を犯すわけではない理由として、ペドフィリアは自身の願望をかなえることが道徳に反すると理解していることが指摘されている。

追記(2023/09/06 02:18):Seto, Cantor and Blanchard (2006)で使われているペドフィリア判定方法は、Blanchard, Dickey, Kuban and Blak (2001)によると感度が低く特異度が高いので、偽陰性が多いと言え、ペドフィリアの割合を過小推定している可能性が高いと指摘された

追記(2023/09/05 04:57):ドイツの匿名パネルデータのオンライン調査(Dombert and Schmidt et al. (2015))によると、ペドフィリア的嗜好を持つ男性は0.1%であった。

In an online survey of 8,718 German men, 4.1% reported sexual fantasies involving prepubescent children, 3.2% reported sexual offending against prepubescent children, and 0.1% reported a pedophilic sexual preference.

上記のsexual offendingには児童ポルノ視聴も含まれる。

なお、4%という数字を紹介している論文を見かけたのだが、数字の出所の論文を確認すると、女児も性的対象にするが成人女性の方を好むteleiophilicな人々も含む数字のようであった。

*1確認したときには該当ツイート(か何か)は消されていたようだ。

*2竹下郁子氏が、性嗜好障害を伴わないペドフィリア/小児性愛の人々について言及していたのかははっきりしないのだが、過去のツイートを見ると性嗜好障害の人々を念頭に置いて可能性は高く、青識亜論氏の議論は藁人形論法になっているきらいがある。

*3現在では外国での児童性暴力も日本の法律で違法となっている。

*4関連記事:女児型ラブドールの利用や販売に道徳的問題がないとは言えないが

*5功利主義であれば、自分の将来に関する欲求を持つことができると言う意味で、理性的で自己意識のある存在の利益に対する平等な配慮が原理になるので、道徳的ではない人々の幸福も無闇に犠牲にできない。カントの義務倫理だと…(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

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