2013年12月27日金曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(3)

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載3回目『ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か』が公開されていた。論点が明確ではないのだが、ハイエクの思想を紹介しつつ自由主義とはいかにあるべきかを示したいのでは無いかと思う。しかしプロパガンダの部分が本題と分離してしまっていて、違和感を持った人は多いのでは無いであろうか。

隷属への道」「法と立法と自由」をつき合わせて検証するべきかも知れないが、ハイエクが

  1. ある特定の時と場所における特定の状況についての知識を集計することができないので、社会主義経済計算が不可能だと主張した
  2. 政府はリスクのあること(≒民間がになう事業)を行うべきではないと主張した
  3. 政府が人々に最低所得を保障することや、病気や事故や災害に備えるための保険を国家がお膳立てすることを認めていた
  4. 「法の支配」によるルール・ベースの政府活動を主張する一方で、それは立法者が善悪の判断を国民に押しつけるものではないと注意していた

ことを紹介している部分は概ね問題が無いように思える。しかし、プロパガンダの部分に粗がある。

1. 一般均衡理論から社会主義経済計算が直接出てくる?

以下はミス・リーディングであろう。

実はランゲのイメージした経済モデルは、新古典派の創始者の一人のワルラスが作った、主流経済学標準バリバリの一般均衡論モデルそのものから直接出てくるものです。

一般均衡理論では、均衡を見つけるために市場経済(≒ワルラス機構)を用いている限りは、供給関数や需要関数の具体的な形状を政府は知る必要が無い。しかし、市場経済を排除して社会主義経済計算を行うには、これらの具体的な形状を政府は知る必要がある。一般均衡理論では「その性質からして統計にはならない」知識は許容され、社会主義経済計算では許容されない。

一般均衡理論はランゲの社会主義経済計算が成立するための必要条件を与えるにすぎず、十分条件を示しているわけではない。「この理論の大前提をひっくり返すようなハイエクの批判」と、ハイエクの議論と一般均衡理論が対立関係にあるように表現しているが、ハイエクの議論とランゲの議論が対立関係にあるからと言って、ハイエクの議論と一般均衡理論に不整合があるわけではない。

2. 紹介しているハイエクの主張と合致しない政府批判

小泉元総理と橋下大阪市長が同じように批判されているのだが、小泉元総理は内実に批判はあるものの民営化を推進しており、橋下大阪市長は民間風の業務遂行を試みていて、方向性に違いがある。ハイエクの議論で両者は同じようなものだと言えるのであろうか。

赤字路線の存続など過剰な公共財の供給や、労働市場の水準を超えた賃金体系は、「それぞれの働きが社会の他の人間にとってどれだけ有用か」分からなくしている。公共事業の赤字で首長が責任を取る部分は少なく、「選択することもそれに伴う危険も個人にゆだねられているあり方か、それとも両方とも個人には課されないあり方か、の二者択一である」とすると、民業でも可能な公共事業はハイエクの議論では支持されない。

松尾氏もハイエクの議論を「役所はリスクのあることに手を出すな」と解釈しているわけで、行政の長は責任を取れないからリスクのある効率化はしてはならないと主張したいのかも知れないが、すると意思決定者が責任を取れるように民営化してしまえと言う事になる。大阪の事例はハイエクの議論で否定できるのかも知れないが、小泉改革で行われた民営化を不十分と言う理由以外では否定するのは困難であろう。

3. 時系列が逆で因果関係が不明瞭な政府批判

小泉改革を「十数年前は、その結果もたらされた就職氷河期で、どれだけの若者の人生が狂ったか。リストラ横行してどれだけ自殺者が出たか」と批判しているが、時系列的に論が荒い。自殺者数が増えたのは1998年以降で、就職内定率が下がったのは1998年~2000年だが、小泉内閣(2001年~2006年)はその後だ。

4. リスクと不確実性の混同

リスクと不確実性の使い分けがよく分からなかった。ナイト流の定義を踏襲しないといけない理由も無いが、特にこだわりが無いのであれば、予想はできる確率的なリスクと、予想だにできない不確実性の使い分けは意識して欲しい。

「国家は民間人の予想を確定するのが役割」の節を見てみよう。「民法などのルールがあれば、詐欺やごまかしのリスクは減って、安心して取引できます」と前節までの議論を振り返りつつ、「公共は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する」とある。リスクと不確実性が同意として使われている。また、制度的にリスクを減少させたとして、それが予想を確定するとまで言うのは、他の要素を無視しすぎで言いすぎに思える。

5 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

今回もご検討いただきましてありがとうございます。

1.については、ランゲモデルでは中央当局は需要関数、供給関数の具体的形状を知る必要はなくて、需要量、供給量を知るだけでいいので、ワルラスモデルと同じになっています。
ワルラスモデルも、セリ人に提示されるのはノーショナルな需要、供給量です。これを一番明示的にしたヒックスの説明では(うろ覚えだから戯画化しているかもしれませんけど)、週の初めにセリが立って、各市場のセリ人の提示する価格を受けて、各自が需給の計画量を瞬時に計算して表明し、それを受けてセリ人が価格を上下する調整を行い、夕方には均衡に落ち着く。そこで決まった供給量を一週かけて生産して、週末にセリで決まった通りの価格で交換されるというものだったと思います。
ハイエクが情報が伝えられないと言っているのは、いろんな広い意味を込めていると思いますが、ここでの各自の望む需要、供給の量の情報というのもあると思われます。
特に、それを正直に表明するインセンティブがあるのかという問題がその後議論されて、ゲーム理論のテーマの一つになってオークション理論で扱われているのだと理解しています。

4. についてですが、ハイエクもナイトのリスクと不確実性の区別を意識しているなと思わせるところはあって、変化が大数の法則で統計にできるならば、中央計画でもOKだろう、でも現実の変化はそうではないから駄目だというくだりがあります。この場合、ナイト風に言えば、リスクなら中央計画経済でもOKだが、不確実性があるから駄目ということになります。
でも、今日的には、現場の情報所有者と決定者との間に情報の非対称性があったときの非効率は、ナイト的にはただのリスクにすぎないレベルの不確実性でも起こることが明らかになっているので、特に明記しないかぎり、本連載では両者を区別しないことにしています。だいたいは確率分布が周知のリスクでも言えるが、ナイト的不確実性ならばなおさら言えることを扱っているつもりです。

2.3.については、小泉政権の話はここでしても水掛け論になって生産的でないと思うので深入りしませんが、直接念頭においているのは、「一時的な低成長を覚悟して改革する」と言って、財政削減の断行や規制緩和を行った初期改革の志向にリスク愛好的なものを感じたものです。
公共事業に賛成ではないのですが、しかし小渕対策でともかく雇用も就職率も一応回復してきていたのが、総需要が縮小して雇用が減って、特に正社員が大幅に削減されたのは間違いがないことです。就職率もまた減りはじめましたし。男性自殺率の動向も同じです。リンクいただいている先のグラフもそうなっていると思います。

uncorrelated さんのコメント...

>> 松尾匡 さん
まいどコメントありがとうございます。

> 1.については、ランゲモデルでは中央当局は需要関数、供給関数の具体的形状を知る必要はなくて、需要量、供給量を知るだけでいいので、ワルラスモデルと同じになっています。

なるほど。ワルラス機構の役割を中央当局が果たすわけですね。
ただ、その場合は、「当局のコンピュータの中の計算手続きの話だと解釈することもできます」と言う部分は問題があるかも知れません。

ランゲ自体もワルラス均衡を試みる汎用的なモデルと、需要関数・供給関数から計算する調整不要なモデルの二つを考えていたのかも知れませんが。

> ハイエクが情報が伝えられないと言っているのは・・・ここでの各自の望む需要、供給の量の情報というのもあると思われます。

需要と供給を正しく申告しないとすると生産者も消費者も結局は損をする事になるので、ハイエクがそう考えていたと見なせる説明は欲しいところです。

「ある特定の時と場所における特定の状況についての知識」が分散していても、それを元にした需給の情報が集計できれば、モデル的には機能します。

「その性質からして統計にはならない」情報が、どう一般均衡理論とランゲモデルの前提を否定するのかは、もっと詳細な説明が必要だと思います。

> 「一時的な低成長を覚悟して改革する」と言って、財政削減の断行や規制緩和を行った初期改革の志向にリスク愛好的なものを感じたものです。

それがハイエクの議論の上でリスクが増す行為なのか、政府のリスクが増す好意なのかは慎重な議論がいると思います。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん
誤解していたなと思いつつ、確認のために検索して吉田(1968)に辿りついたのですが、ランゲの社会主義モデルでは資本蓄積率は中央計画局が消費者の効用最大化問題を解いて決定する事になっています。

吉田(1968)が正しいのかも良く分からないのですが、マクロの効用最大化問題は生産関数と資源量も知らないと解けないので、近経的には需要関数・供給関数を導出できているのでは無いかと思ってしまいます。

http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/3059/2/SJ21_0129_046Z%20y-yoshida.pdf
PDFの9枚目54頁、「(a) 経済における資本蓄積率を決定する。」の段落です。

ハイエクがランゲモデルを一般均衡理論と同値と捉えていれば、別に何も問題ないわけですが、そういう記述はあるのでしょうか?

松尾匡 さんのコメント...

蓄積についてははじめて意識しました。今九州の自宅にいて、手元に何もないので、はっきりとは言えませんが、一般には静学モデルとして議論されているので、基本的にワルラスモデルととらえられていると思います。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20131222/p2
で書かれていることが、よく言われていることだと思います。
ここにでてくる西部(1996)は、北大の私の知り合いの西部忠さんの博士論文が元になっている本で、博士論文は、
http://cc.econ.hokudai.ac.jp/system/files/doctoral.pdf
です。

セリで、各自が望む需要、供給量を正直に表明するかどうかという問題は、これも手元に何もないのではっきり言えませんけど、オークション理論でいろいろ取り上げられたテーマだと思います。
ハイエクがこれをはっきり言っていたというよりは、あとでそんなことが意識されるようになってから、そういえば昔ハイエクが言っていたのはこのことかと、再解釈されるようになったという感じだと思います。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん
> セリで、各自が望む需要、供給量を正直に表明するかどうかという問題は、これも手元に何もないのではっきり言えませんけど、オークション理論でいろいろ取り上げられたテーマだと思います。

売り手が1で買い手が多数のオークションや、売り手か買い手かその両方が有限の産業組織での議論と異なり、売り手も買い手も無数にいることがワルラス均衡の前提な点は注意する必要があると思います。

競争均衡の場合は、価格が所与で需給を偽って申告すると、確実に損をするか、無数にいる競合に取引をもっていかれることになります(完全競争)。プレイヤーが有限だと、寡占状態になりますね。

ハイエクの批判が完全競争・完全情報・完備契約の前提に関わる部分でないと、「この問題を主流派経済学がとりあげることができるようになったのは、ずっと後年ゲーム理論と呼ばれる分野が発展してから」とは言えないかも知れません。

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