武蔵大学の北村紗衣氏の映画評論において作品理解に難があることを見て来た*1が、北村氏の雑な評論は映画に留まらない。作品理解に難があるのか、国語表現に難があるのか分からないが、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か: 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』の戯曲『ワーニャ伯父さん』の評論も雑なことになっている。
『ワーニャ伯父さん』は青空文庫にも入っている古典で、戯曲なので舞台や映像でないと本当のよさは分からないと思うが、それでもウェブ小説の大半よりは面白い*2。
1. ワーニャおじさんが自殺未遂?
さて、北村氏の著作のこの作品の紹介の中に、
ワーニャは結局、財産のことで大騒ぎし、自殺を試みて失敗する
と言う部分がある。自殺を試みて失敗…そんな話、あったっけ?
ワーニャおじさんは発砲事件を起こしたあと、自殺をしないようにと銃を隠され、自殺に使わないようにとくすねていたモルヒネの瓶を医師に返却させられるわけだが、モルヒネの瓶をくすねたことだけで、自殺を試みたと言えるのか? — 命の危機どころか、自傷すら行っていないのに。
友人にばれるように自殺の準備はするが、実際には何もしないのがワーニャおじさんなのではないであろうか。室内という至近距離で発砲しても教授にあてられない。不器用描写はないので小心者と解釈できる*3。ワーニャおじさんの内面は原作者アントン・チェーホフのみが知るわけだが、自殺未遂を起こしたかのような表現はミスリーディングだ。
2. ブスはキモいと言う価値観
フェミニスト批評としてどうなのかと言う部分もある。
キモくて金のないおっさんは不幸だが、若いのにキモい女も実に不幸だ、ということが示唆されているという点があります。ワーニャの姪ソーニャは親切で感じも良く、普通の意味でキモい人ではありませんが、不美人でそれを自覚しています。
作中で誰かがソーニャを気持ちが悪いと評した部分は(見落としが無ければ)ないし*4、社会通念上でもキモい人ではないソーニャを、器量が良くないという理由だけで北村紗衣氏はキモいとしている。誰かの論評を踏襲したのではなく、北村紗衣氏の意見になる。見てくれだけで女性をキモいと認定してしまうフェミニスト。
なお、ソーニャは地所の所有者で資産家だし*5、年配の男性一人にふられただけなので、「実に不幸」なのかは分からない。
3. 北村紗衣の評論が示すもの
作品理解、もしくは表現能力、もしくはその両方で難がある。薬剤を飲んで死に切れなかったのと、自殺に使える薬剤を手にするのは異なる。ワーニャおじさんがモルヒネの瓶をくすねた描写ではなく、ワーニャおじさんがくすねていたのがばれていた描写であることにも意味がある。原作者は様々な選択肢の中でその描写を選んでいるわけで、まずは正確に作品を受け取らないといけないはずだが、北村評はそれを放棄しているように感じる。また、必ずしもフェミニズムやリベラリズムといった観点から批判ができているわけではない。
作品理解に関しては、『ワーニャ伯父さん』だけではない。映画『猿の惑星』評や映画『ダーティハリー』評もぱっと見でダメ評価をしてしまい、製作者が狙ってそういう表現にしている可能性を考慮しているように思えない批評であった。時代劇『必殺忠臣蔵』に写っていた新幹線のように製作側の意図を掴むのが困難なものもあるが、何でも画面に入り込んだ電線のように片付けてよいわけではない。深読みをし過ぎるオタクの間では『月刊少女野崎くん』6巻の「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と言う台詞が自戒をもって流行っているが、それでも製作者の意図を掴もうとする姿勢が批評の第一歩だから。
*1関連記事:映画「ダーティハリー」のキャラハン刑事がミランダ警告を発さなかった理由,映画「猿の惑星」で、猿が英語を話していた理由
*2あなたが気に入っているなろう小説は、きっと大半に含まれない。
*3小心者でなければ、現状を変えるべく何かしてしまう話になったはずだ。
*4「私は、自分の不器量さかげんをよく知っているわ、ようく知っているわ。……こないだの日曜、わたしが教会から出てきたら、みんなで噂をしているのが聞えたっけ。「あのかたは親切で、優しい人だけれど、惜しいことに器量がね」って……不器量……不器量……不器量……」とある。
*5セレブリャコーフの「そりゃいかにも、この地所はソーニャのものさ。誰がそうでないと言っている?」と言う台詞がある。
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