倫理学者の江口聡氏との会話を、看護関係で著作のある児玉真美氏が怒っており、その責任は江口氏にあると社会学者の粥川準二氏が主張していた(Togetter)。
児玉氏のブログのエントリーの末尾に暗に江口氏を批判する記述があった*1ため、少なくとも江口氏が障害者を抱える人に配慮の無い言葉をかけたと、粥川氏が判断したようだ。
第三者的に見ていると、会話の詳細が記録されていないため、江口氏に非があったのか、児玉氏が勘違いしたのか分からない。水掛け論だなと思うのだが、関連して児玉氏の主張には気になる特徴があるのに気付いた。
1. インタビューにあるシンガーの衰弱死/安楽死問題
児玉氏は別のエントリーで、ピーター・シンガーと言う倫理学者を危険人物で人間性に問題があり、インタビューでの説明をセコイ言い訳と批判している。
そこではインタビューアが「なぜ病気の乳児を安楽死させる事が許されるか?」と質問し、シンガーが回りくどい説明を行っている。曰く、オーストラリアの病院では重度の障害(例えば二分脊椎)を持つ乳児が出産されると、保護者が治療を諦めて六ヶ月以内に徐々に衰弱死に至るケースが大半で、この救命にならない延命治療は医療関係者を消耗させていたそうだ。ゆえに、医者から暗に、保護者が延命を諦めた乳児を安楽死させることを正当化できるか質問されて、シンガーと同僚のHelga Kuhseは正当化できると答えたそうだ。シンガーは乳児の安楽死と衰弱死の違いを理解できないとしている。つまりシンガーは、衰弱死が予定された乳児を、安楽死させる事を肯定している。
インタビューでは明確に述べられてはいないが、シンガーは保護者や医療関係者の負担に見合うほど、乳児の生存時間の差に価値を見出せていないようだ。
追記(2012/11/02 03:00):江口聡氏の「3.4. 障害を負った新生児を死なせることも許されるだろうか?」にシンガーの議論が短く紹介されている。
2. 児玉氏のシンガー批判は設定を誤解している
これに対する児玉氏の批判は的を射ていない。まず、児玉氏は二分脊椎は重度障害では無いと言う主張で、救命治療を行うべきだと言う。二分脊椎の知識に関しては、児玉氏が恐らく正しく、シンガーが何か勘違いしているか、オーストラリアの医療関係者の知識が不足しているか、それとも年月が経って状況が変化したのであろう。しかし、あくまで例であってシンガーの論理構成に影響は無い。次に、以下のように問題を摩り替えていると主張している。
「安楽死の是非」ではなく、「望ましい安楽死の方法」の議論にすり替え、
「安楽死させる際に苦しめることは倫理的かどうか」という後者の問いに答えることによって、
安楽死そのものが倫理的だという前者の問いの結論を導いてみせるという
盗人猛々しい大マヤカシを演じている。
児玉氏には、衰弱死と安楽死は手法の違いであって、どちらも同じ問題に見えるらしい*2。しかし、シンガーは乳児を衰弱死か安楽死させる二択しかない状況で、安楽死を選択する事が肯定されると言っているので、児玉氏の理解がおかしい。
3. 児玉氏の盲目的な延命の肯定
理解がおかしくなったのは、いかなる状況でも延命治療を行うべきだと児玉氏が思っているためであろう。人間は誰でも苦難をくぐりぬける力がある、介護し介護される関係性に幸福があると児玉氏は主張する。この児玉氏の盲目的な延命の肯定は、「安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること」では『「くぐりぬける力」を信頼する』の節で安楽死を望む人々の主張を否定している事からも、強い信念を持っている。児玉氏は障害を理由にした中絶にも否定的だ。
4. シンガー批判では介護者負担の観点からの議論を否定
児玉氏のシンガー批判に立ち戻ろう。以下の部分では介護者負担の観点から議論していることを批判している。
救命治療をせず赤ん坊が苦しんで死ぬのを見ている親と医師が消耗するから さっさと安楽死させるのがいいと言っているのであって、 別に苦しむ赤ん坊がかわいそうだから、と言っているわけでもないみたいな……。
盲目的に延命の肯定するべきなのであれば、保護者と医師の消耗も、そして乳児の苦難も議論すべきではない。しかし、児玉氏はこの前提は常には維持していない事が分かる。
5. 障害者の延命行為は誰かの負担になる
障害者だからと言って人生の全てが閉ざされるわけではなく、人間社会の多様性を考えると、大半の障害など大きな問題にならないであろう。しかし、生きている事が辛いと感じる人々もいるであろうし、そもそも何も意識が無い人々もいる*3。そして彼らを生かしていくことには、金銭的なコスト以外にも、家族に多大な負担をかける事が分かっている。場合によっては、死を望む障害者を、家族が重い負担に苦しみながら介護しているケースもあるわけだ。
6. 児玉氏も介護負担が多大である事は指摘
実は児玉氏も介護者支援の強化を求めている。「安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること」では、以下のように記述している。
日本ではまだ「介護者支援」という言葉そのものが馴染みが薄く、「支援」というと要介護状態の人への支援でイメージが止まってしまっているけれど、介護を担っている人も生身の人間なのだ。どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、生身の人間にできること、耐えられることには限界がある。介護者もまた支援を必要としている。
つまり、児玉氏も介護し介護される関係性による幸福が、障害者を抱える負担を上回るとは限らない事を知っているわけだ*4。ここで児玉氏の信念が、脆いものなのでは無いかと疑いが出てくる。
7. 負担の存在が、延命行為の是非の検討を要請する
児玉氏が、介護者負担が大きい事を認めているのに、介護者負担の観点から議論する事に否定的なのは興味深い。介護し介護される関係性による幸福が十分大きいのであれば、盲目的な延命治療の肯定も説得力があるのかも知れないが、その幸福は介護者負担を打ち消すものでは無いようだ。
延命行為から得られる価値が議論されるのは、やむを得ないように思える。つまり、児玉氏の盲目的な延命の肯定を前提としたシンガー批判は、説得力を持たない。介護者の負担がある以上、シンガーのように延命によって得られる価値を検討する必要があるのは当然に思える。
8. 介護の苦労を承認して欲しいだけに思える
色々な負担を代償に、児玉氏は重症児を介護している。「私が重症児の親であると知りつつ正面きって」と言うところから、強く意識しているようだ。しかし、その是非については自信が無いのではあろうか。シンガーや江口氏の議論がおかしいのであれば、おかしい点を批判すれば事足りる。罵倒する必要が無い*5。児玉氏の介護行為を否定されているように感じるのかも知れないが、そうだとしても、それは児玉氏の苦労を承認して欲しいと言う欲求の裏返しでしかない。
*1具体的な部分は以下になる。なお児玉氏の記憶に基づく記述だと思われ、正確性は分からない。
ピーター・シンガーみたいな頭がいいだけの卑怯者や、
いつか、酒の席とはいえ、私が重症児の親であると知りつつ正面きって
「障害児は殺したっていい」と挑むように断言してみせ、
「どうしてですか?」と問うと、
「生きたって幸せになれないから」
「でも幸せって主観的なものですよね」
「少なくとも俺(大学教授)のような仕事をして、
こうして酒を飲み議論するようなシアワセな生活はできない」
と言い放ってくださった生命倫理学者の方のことなどを思う時に、
*2ただし児玉氏は、そもそも延命治療を諦める親の姿勢を改めさせろとは主張していない。児玉氏の主張からすると、親が子の生存を決定する方が問題に感じるが。
*3「死にたい」と言っていても単なる不満の表明でしかない事も多く、23年間も植物人間だと思われていた男性が実は意識があったという事例もあり(MailOnline)、これらを安易に認定してしまうかは別に問題がある。
*4看過できない負担があると言うことで、単純な費用便益分析で生存の可否を議論すべきと言うわけではない。
*5シンガーの主張が詭弁であるとしても、「セコイ言い訳」「盗人猛々しい」はその表現として妥当では無く、単なる罵倒でしかない。シンガーが私的利益を得て、その弁明をしているわけではない。
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