2017年10月3日火曜日

ヒトES細胞を試料に用いるための生命科学者による倫理的正当化

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生命倫理について、人文系の哲学者の主張を見つけることは容易いと思うが、生命科学の研究者がヒトES細胞を試料に用いることを、どのように倫理的に正当化しているのか、はっきり確認できることは少ない。

実際問題、学内の研究等倫理審査委員会をパスできれば良いわけで、それ以上の関心を持っている研究者は少ないのであろう。しかし、さすがに偉い人になると外部との折衝があるのか無視するわけにもいかないようだ。そのツイートをよく見かける中辻憲夫氏の著作『幹細胞と再生医療』の第5章には言及があった。

1. ヒト受精卵をES細胞にして良い理由

整合的に感じる部分をまとめると、次のような主張になっている:ES細胞の元になる不妊治療でできる廃棄予定の余剰胚*1は、どのみち廃棄処分をすることになるので、生命科学の研究に利用しても犠牲になるのは同じである一方、研究に利用できれば得られる科学的な成果は大きい。よって不妊治療でできる余剰胚はES細胞として転用するのが合理的である。欧米では一部の強い反対にも関わらず、このような考え方が受け入れられている。

2. 論の組み立て方が雑な所

この主張がおかしいと言う事では無いが、細部をもうちょっと練って欲しいと言うか、回避したつもりの議論を回避できていないと言うか、論の組み立て方に雑な所がある。

著者は合理性や整合性を尊重することが重要であると何度も強調しているが、合理的/整合的に結論を導くための決定的な前提についての議論を回避してしまっている。つまり「各個人や宗教で考えが異なるので、人間がいつからはじまるのかという問題には答えはない」(p.55)としているのだが、人間がいつからはじまるのか、倫理学的に書き直せばいつパーソン(人格)になるのかが分からないと、余剰胚を人間として取り扱うべきか否かに結論が出ない。ES細胞の研究どころか、不妊治療そのものに反対するローマカトリック教会の教義が紹介されているが(p.55)、余剰胚がパーソンだと認めればカトリックの主張の方が合理的/整合的な議論になってしまう。受精卵が着床に失敗する確率が高い(p.56)と言う話が挟まれるので、着床するまでは人間ではない*2と暗黙に見なしている気はするのだが。

実社会と大きく乖離する倫理は、合理的/整合的であっても受け入れられないとすることもできる*3。どうしても余剰胚が発生する不妊治療は実際に社会に受け入れられており、ローマカトリック教会の教義は合理的/整合的であっても受け入れられないとしてしまえば、着床前の受精卵はパーソンではないと考えるべきであろう。著者は、外国の世論調査を持ち出してES細胞を研究に使う正当性を示そうとしている。しかし、その後に日本に関して、「これだけゆがんだ情報と理解が広まってしまった国では、世論調査は無意味」(p.58)と言ってしまっている。外国の世論調査が歪んでいるのではないかと批判されたら困るであろうし、突き詰めれば世論から倫理を正当化することを否定してしまっている。

全般的に素朴な所があり、例えば「社会全体にとっての最善」(p.50)を追求するのが正しいと書かれているのだが、「社会全体にとっての最善」とは何かが明示されていない。2010年にオバマ大統領がグアテマラ人体実験に関して謝罪を行なったが、もしこの実験が治療方法の大きな進歩をもたらして、人体実験の犠牲者数よりも多くの人々の命を救ったのであれば、「社会全体にとっての最善」と言えるであろうか。違和感を抱く人が多いであろう。「各人がどのように考えるのも信じるのも、他人の権利を侵害しない限りにおいては自由」(p.55)も、誰をパーソンとして認め、何を権利として認めるかで話は大きく変わってくる。

3. 本音は違う気はするものの

「倫理はいいから研究させろ」「生命倫理学者?邪魔だからどっか行け」と言うのが本音なのでは無いかと思わなくも無いし、実際問題、実践の倫理は雰囲気で定まってくるところが多分にあるから、個々の生命科学者が事細かに倫理的議論を展開するのは時間の無駄である。大雑把な話になるのはやむを得ない。しかし、生命科学研究に従事している人の意見も聞くべきで、そういう意味でこの本のこの章は価値が高い。なお、他の章は幹細胞の概要や臨床応用の可能性と、どういう研究がされてきてどういう課題が残っているのかを紹介した内容になっており、興味深いものであった。2015年までの話であって、2年経って変わっているところもあると思うが、さっと読む価値は高いと思う。

*1着床前診断と同様に、受精後2~3日経って桑実胚になる前に細胞を1~2個取り出し、ES細胞として使う技術も繰り返し紹介している。本当は作成技術ごとに倫理を議論するべきなのかも知れない。こちらも上手く培養したら成長していきそうな気もするが。

*2死ぬ確率が高い状態の人間を殺しても、やはり倫理的に問題は出るであろうし、そもそも人間が積極的に関与できない事柄から、人間が持つべき倫理を導き出して良いのかは疑問である。また、人工子宮が発展していって遺伝的欠陥の無い受精卵を全て成長させられるようになったときに、死ぬ確率が低いのだから生かすべきと言う議論にもなりかねない面もある。

*3ある規範に従った個々の倫理的判断が整合的であると言う意味ではなく、実社会と整合的であるべきと言う話なのかも知れない。

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