マンガ家の参院選候補者の赤松健氏が「外圧や行き過ぎたジェンダー論など議論の中心に当事者がいないのはおかしい。」とツイートして、ジェンダー社会学者やフェミニストから学問の自由の観点から非難されている。
ジェンダー論(gender studies)に基づくマンガに関わる表現規制の議論に、マンガ家が参加していないのはおかしいと言っているだけだし、学問としてジェンダー論を学んだり研究したりすることを非難しているわけではないので批判の多くは失当だが、「行き過ぎたジェンダー論」と言う表現は確かに奇妙だ。何を基準に行き過ぎと言うのであろうか?
学問に対して「行き過ぎ」と批判すべき事はほとんど無い。グアテマラ人体実験は行き過ぎた実験至上主義と非難できるかもだが、それぐらいだ。ネット界隈に伝わってくるジェンダー〇〇学者の議論は、意味不明な用語を振り回しているとか、実証的エヴィデンスが不足しすぎているとか、参照している論文を誤読しているとか、むしろ学問的には全く足りない*1。男性と女性の運動能力に差がない*2とか、現代科学技術であれば男性も出産できる*3とか言われても困るんですが。
そう、行き過ぎたジェンダー論など存在しない。ただ学問的に成熟できていない(フェミニズムの影響を受けた)ジェンダー論があるのみなのだ。
*2スポーツに求められる多様な性への尊重 / Respect for Gender and Sexual Diversity in Sports: | 関西大学ニューズレター『Reed』|関西大学
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*3「先端的な医療技術を利用すれば、男性が生むことも不可能ではない」(瀬地山角『炎上CMでよみとくジェンダー論』p.46)
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