1995年に出版された「イギリス 繁栄のあとさき」が、3月に文庫にされていた。英国史が専門の歴史家によるエッセイ集で、生産、商業、金融で圧倒的な力を持つヘゲモニー国家としての英国を歴史研究の紹介を通して論じつつ、日本の状況を簡単に論じている。問題を感じる議論も無いわけではないのだが、18世紀から19世紀の英国の社会事情が色々と紹介されており読み物として面白いし、19年経った今でも論じられている日本の社会問題が残っているところも興味深い。また、21のエッセイが収録されているが、それぞれの完結度が高いので読みやすい。
日本の問題はさておき、英国史における議論は次の一点が中心になる。つまり、産業革命が英国をヘゲモニー国家にしたのではなく、植民地支配による商業資本の発達が英国をヘゲモニー国家にして産業革命を可能したと言うものだ。英国がフランスとの戦争に勝ち続けられたのは、工業力の差があったからではなく、国債で大量の戦費調達が可能であったためらしい。国債の大半は大地主層、ロンドン商人、医者や弁護士などの専門職、そして植民地のプランテーション経営者が消化しており、これにオランダの投資家が加わったそうだ。まだ弱小な存在であった産業資本家は、ほとんど寄与していない(pp.20–24)。地主層のジェントルマンが果たした役割は、戦費調達だけに限らない。水運や陸運の整備のみならず、科学の発展などにもジェントルマンが大きな役割を果たしていた(pp.81–84)。文化的な影響も大きく、産業資本家が英国資本主義の担い手であったとは言えない。イギリス資本主義の担い手が産業資本ではなくジェントルマンだと認識すると、産業資本の衰退が英国の没落をすぐに招かないことが分かる。英国は経済的に低迷しているように思われているが、実際には成長率が相対的に低下しているに過ぎない(pp.183–187)。繁栄後の衰退モデルとして、英国に学ぶところは多いにある。
疑問点が無いわけではない。植民地の確保とそれによる商業資本の発達が重要だとすると、18世紀末まで広大な植民地を持ち、軍事的にも英国と渡り合っていたスペイン*1がヘゲモニー国家になれなかった理由が不明瞭になる*2。本書ではスペインについては、ほぼ言及されていない。また、工業化が植民地などの周辺国を低開発国化すると言うのは、近年の新興工業国の発展などの反例があるので、もう少し慎重な議論が必要に思える。用語の使い方で議論に影響しない瑣末的な部分ではあるが、名誉のために道路整備に私財を費やしても選好に一貫性があれば経済合理的であるので、ジェントルマンが不合理なように記述してある部分は気になった。
全般的に文化史的な薀蓄が豊富に紹介されており、核家族化による社会保障問題なども語られている。保守を装った妄想的懐古主義者が熱弁をふるったときのために、良く読んでおくとためになりそうだ。また社会保障の議論などには結びつかないが、オランダが世界に発信した誇るべき文化が刑務所(ラスプホイス/スピンホイス)だった事などは浅学で知らなかったので興味深かった。文章的にも構成的にも読むのが困難という事は全くないし、物知りになれた感じがするので読後感も良い。本書は通勤通学のお供にお勧めしたい一冊だと思う。
*11585年から1604年の英西戦争では、アルマダの海戦でイングランドへの上陸は失敗したものの、そこから軍事的に建て直しイングランドへ大きな損害を与えて講和条約を有利に結んでいる。その後、軍事的敗北を喫することはあったが、1739年から1748年のジェンキンスの耳の戦争や、1779年から1783年のアメリカ独立戦争では有利に戦闘を進め、スペインの英国に対する軍事的劣勢が明確になるのは産業革命以後である。
*2最近の研究を紹介した「イギリス帝国の歴史」ではインド製綿織物の重要性を強調していた。スペインはインド産綿織物の流通に関わっていなかったため、インド製綿織物を輸入代替工業化することで産業革命を行う事ができなかったと思われる。
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