2022年8月24日水曜日

サラ・アーメッドの主張における「特定の討議や対話を拒絶」の意味

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

東京大学の清水晶子氏がシンポジウム「フェミ科研と学問の自由」で行なったプレゼンテーション*1で紹介したサラ・アーメッドの主張での「特定の討議や対話を拒絶」を、主張への批判に応答しない事だと解釈しているアンチ・フェミニストのネット論客がいる*2のだが、端的に言って誤読になっているので指摘したい。

清水氏の以下のスライドをじっくり読めば自明だと思うが、

「フェミニストの発言は自由になされるべき」と言う意見を否定するために、「特定の討議や対話を拒絶することこそが…生き延びる鍵」と言っているわけだから、ここでの「討議や対話を拒絶」は自由な発言の抑圧を意味する

具体的に例示すれば、ポリコレ違反の発言をしたネット論客のアカウントを説明なく永久凍結するSNS検閲や、ネット論客の職場に抗議が殺到し、ネット論客が解雇されるキャンセルカルチャーなどになる。「討議や対話を拒絶」と聞くと消極的で穏当なものに思えるが、内実はアグレッシブな思想統制だ。批判を用いているわけではないので、まさに理性ではなく威嚇。

一方、字句通りの「討議や対話を拒絶」は、議論をしないことを意味しない。議論と聞くと、どこかの場に同時に集まって言い争うことを想像すると思うが、意見交換できれば議論だ。あるフェミニストが思うところを述べ、ネット論客の批判に反論せずに黙殺しても議論としては成立する。やり取りを見ていた第3者が問題を考察するのに役立つので、真理の探求と言う議論の目的に資することになる。

最近、有名ツイフェミの皆さんはネット論客の批判を無視するようになっている*3。そういうツイフェミの態度を、言論の自由の立場からの清水晶子氏批判に便乗して批判したかったのだと思うが、両者の道徳的な意味は大きく異なる。レス乞食の構ってちゃん*4には寂しいと思うが、批判を無視するのは言論の自由の範囲内だから受忍しよう。

そもそもネット論客当人もあちこちの無名アカウントからの批判を、だいたい無視している。ネット論客がツイフェミの批判を無視しても道徳的なのであれば、ツイフェミがネット論客の批判を無視しても道徳的なのでは? — 事あるたびに重要性を強調している「反転可能性テスト」を今こそ用いるべきだ。

*1清水晶子先生のキャンセルカルチャー擁護の講演 - Togetter

*2シュナムル氏を巡る断章、または超民主主義について|青識亜論|note

*3「萌え絵批判」はなぜ燃えるのか――私たちが怒る本当の理由|青識亜論|note」で、「アンチフェミニストと対話する意味などない」「フェミニストにとってメリットがない」と言う考えを批判し直接対話を呼びかけているので、無視され気味なのが分かる。

*4相手から討論に値しないと見做されているのに直接対話を呼びか続けている一方、煽り口調で誠実さに欠ける面がある(関連記事:フェミニストはリバタリアン論客の青識亜論とどう言い争うべきか露呈したネット論客の偽旗作戦)。

*5SNS検閲の凍結措置も定義上はキャンセルカルチャーに入るが、別アカウントで復活できたりするので実質的には異なる。

0 コメント:

コメントを投稿