2022年5月16日月曜日

統計手法の解説用途で定番のIris Datasetの排斥を訴える人々の理屈が脆弱すぎる件

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統計学にはアヤメ(Iris)の有名なデータセットがあって、よく統計手法の説明に使われている。これが政治的に正しくないので、他のデータセット(i.e. パルマーペンギンのデータセット)を使うようにしようと言う呼びかけがあるのだが、理屈がほとんど立っていない。だから、アヤメでもパルマーペンギンでも好きな方を使えばよい。

Iris Datasetは、Annals of Eugenics(拙訳:優生学紀要)に掲載された、統計学の大家であるロナルド・フィッシャーの1936年の論文"THE USE OF MULTIPLE MEASUREMENTS IN TAXONOMIC PROBLEMS(拙訳:分類学上の問題における複合測定)"で用いられたデータセットで、もともとは植物学者のエドガー・アンダーソンが整備したものだと知られている。論文Fisher (1936)はLinear Discriminant Analysisと言う統計手法の紹介を目的としている。

1. Iris Dataset排斥論者の理屈のおかしいところ

さて、どういう理屈でIris Datasetの利用は避けるべきと言われているのであろうか。電子化されたモノに転載ミスがあるそうだが*1、これは注意すればいいのでマイナーすぎる問題だ。他に科学的な問題は指摘されていない。すると、研究倫理、つまり道徳的な問題がある事になる。Iris Dataset排斥論者は、(1)論文執筆者が優生学の主唱者であること、(2)優生学のための分析手法の論文であること、(3)優生学を正当化するための学術雑誌に掲載されたことを問題にしている*2。一見それらしいが、どれもアンダーソンが整備したデータセットを禁止すべき理由にならない。

(1)論文執筆者が優生学の主唱者

フィッシャーが優生学に傾倒しており、子沢山の高所得者に給付金をたくさん出す優生政策を提唱していたのは確かだが、Iris Datasetはアンダーソンが整備したものなので、まずはフィッシャーが開発した分析手法の方を禁止すべきだ。ところが、フィッシャーや他の優生学者の統計学における研究成果の利用を避けようと言う呼びかけはされていない。

(2)優生学のための分析手法の論文

主張が失当すぎる。Linear Discriminant Analysisは優生学のための分析手法とは言えず、Fisher (1936)も分類学への応用を紹介している。Iris Datasetは花卉のデータセットであって、ヒトのデータセットではない。Fisher (1936)には優生学のための分析手法と言う記述どころか、優生学と言う単語も含まれていない。

At the author’s suggestion use has already been made of this fact in craniometry (a) by Mr E. S. Martin, who has applied the principle to the sex differences in measurements of the mandible, and (b) by Miss Mildred Barnard, who showed how to obtain from a series of dated series the particular compound of cranial measurements showing most distinctly a progressive or secular trend. (拙訳:著者の提案で、(a)E.S.Martin氏(下顎の測定における性差にこの手法を適用)と、(b)Mildred Barnard氏(もっとも明確に進歩的もしくは世俗的な傾向を示す頭蓋計測の際だった組み合わせを、一連の昔の系統からの得かたを示した)によって、利用は既に頭骨測定で行われている)

Iris Dataset排斥論者(と言われるのを嫌がっているある人物)は、頭骨測定(craniometry)に関する部分があり、craniometryを「肯定している」こと、craniometryと優生学の関連が強いことを指摘していたが、Fisher (1936)では紹介する分析手法が既に頭骨測定で使われていることしか言及していない。craniometryを啓蒙しているわけではない。

そもそも当時の優生学者が頭骨測定をよく用いていたのは確かだが、craniometryは優生学を正当化するためのものでもないし、学問として優生学が廃れて40年以上経った2004年のペーパー(PIETRUSEWSKY (2004))でもcraniometryが用いられている*3。頭骨測定は一時期研究手法としては廃れていたらしいのだが、1990年代にまた利用されるようになってきているそうだ。当時と現在で具体的な計測方法は異なると思うが。

また、Biometrika誌の創設者の1人である統計学者のゴルトンは、優生学の研究の過程で回帰直線と相関係数を開発したそうだが、回帰直線と相関係数を使うなと言う主張は見かけない。優生学のための分析手法だったから問題だと本気で思っている人はいないのだ。

(3)優生学を正当化するための学術雑誌に掲載された

Annals of Eugenicsの論文を引用するのが良くないという主張はどうであろうか。優生学と名前をなるべく表記するなと言う発想だ。しかし、表記したからと言って優生思想の信奉者が増えるわけでもなく、表記することが不徳になる理由はない。引用が増えると雑誌の格があがってケシカランと思うかも知れないが、1954年にAnnals of Human Geneticsに名称変更している。また、同様の理屈で言えば、優生学者が集まって創刊したBiometrikaも引用してはいけないことになる。しかし、Biometrikaの創刊者の目的に関わらず、統計学のトップジャーナルの一つとして君臨している。

2. 優生学は名前を出してはいけない用語なのか?

優生学は十九世紀自然科学主義、社会ダーウィニズムの影響を強く受けたもので、もともとはヒトの血統改良で病気を予防しようと言う話であった*4。1950年頃には学問的に興味関心をもたれなくなったが、これは学問的に血統と“優劣”の関係がよく示されず、人間のような巨大雑系集団で血統改良を行うのが困難なのが分かったため、優生思想に無理があった事が科学的に示されたことが理由だ。優生学は統計学を育み、優生学は統計学に殺された。ただし、生命科学や医療技術の発達によって、近年の優生思想に基づく(か近い)政策は効果を挙げているし、遺伝子工学の発達でヒトの血統改良も可能になるかも知れない。

優生政策の一つだと理解されているナチスの障害者の安楽死計画*5や、優生政策の典型例となる欧米列強や日本で広く実施されていた先天的な障害の遺伝防止を目的とした断種政策で、強制施術があったことが非人道的であったことは間違いない。しかし、安楽死計画を優生学から支持することは不可能だし、優生学が強制断種を強く支持しているわけでもない。優生学が人種差別を正当化するような議論もあるが、優生学で血統と“優劣”の関係に定量的な関係は見つけられていないし、そもそも“優劣”は人種差別をするべき道徳的な理由にはならない。

1970年代ぐらいから優生学は目の仇にされ非難されてきているのだが、優生学は非人道的な行為を正当化しようとする学問ではない。悪用はされた? — そんなことを言ったら物理や化学の方が問題になる。そもそも、優生学に言及したからと言って、優生思想の支持の表明にはならないし、優生思想を人々に植え付けるわけでもない。

3. 二重、三重にねじれた議論

Iris Dataset排斥論者は、優生学と関連しているのでIris Datasetは道徳的に問題だと主張しているわけだが、Iris Datasetが優生学と関連している度合いは低いし、優生学と関連していることが道徳的に問題だと言える根拠も無い。優生学と関連していると聞くと不徳な存在な気がする一方、Iris Datasetには代替があるから排斥しても実用面で問題が無いので、Iris Dataset排斥を訴えてポリコレに忠実な姿勢を見せたいだけでは無いであろうか。これは科学的にはもちろん、道徳的にも不誠実な態度だ。

*1RのIris3データセットでは指摘されている問題は確認されなかった。

*2Armchair Ecology - It's time to retire the iris dataset

*3Fisher (1936)におけるcraniometryと、PIETRUSEWSKY (2004)におけるcraniometryは別の意味であると言う指摘があったのだが、確認した限りは多義ではなく、Fisher (1936)の中で参照されている2つの研究は頭蓋骨の測定をしており、PIETRUSEWSKY (2004)も頭蓋骨の測定をしているので、craniometryの意味はどちらも頭蓋測定で差異は無いと考えられる。

*4以下の優生学の説明は『優生学と人間社会』に拠る(関連記事:『優生学と人間社会』を読んで左派のレッテル貼りを検証したら

*5優生学者の多くは断種で十分なので安楽死計画に反対しており、協力した唯一の優生学者のレンツも第一次世界大戦のドイツでは社会が困窮する中で障害者が餓死することが起きた事を念頭に、優生学とは別の観点から安楽死計画を支持していた。

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