2019年8月3日土曜日

求められる査読付き新書レーベル

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文学者/エッセイストの池内紀氏の『ヒトラーの時代』の記述に多くの誤りがあると歴史研究者から指摘されており*1、特にある章は正誤表での訂正が困難なレベルであるそうだ。歴史を題材にした文学者の随筆だと捉えればよい気もするのだが*2、良質の歴史書が並ぶ中公新書が出してしまったので失望が大きい。中央公論新社が既刊への批判をどう処理するかが注目されるが、もう少し制度的に製作過程を改善すべきかも知れない。

査読システムを入れるべきでは無いであろうか。今回の件は、解釈に飛躍があると言う問題ではなく、固有名詞が一般的な表記とずれている、ドイツ近現代史に詳しい人であればすぐ気づく事実誤認があると言うことで、校閲が頑張れば問題は起きなかったと言う話もあるが、一般的には社会科学や人文科学でも学問的蓄積が進んでおり、出版社の人間がキャッチアップするのは困難になりつつある。また、校閲も何冊も同時に担当しており、十分な注意力を発揮できるとも限らない。その分野の匿名の専門家による査読を行う方が、品質を確保しやすいであろう。偉い先生を駆り出すのは気が引けるかも知れないが、博士課程の大学院生を雇ってもある程度は機能する。

実績を積んできた研究者が、自身の主要研究対象について書いた本の場合、そう不用意なことは書かれないであろうから、査読システムから得られる利益は小さいであろうが、今回のように執筆者と内容が分野横断している場合は高い効果が期待できる。執筆者が専門外のことを書いている新書は少なくない。もちろん、限界や弊害はある。日本語の捻れなどは校閲の専門家の方が気づきやすいであろうから*3、校閲が不要になるわけではない。虚偽のオーラル・ヒストリーを書かれるような場合、裏の取りようが無いのでチェックできない。学術論文と異なり好き勝手に書けると言う執筆者側の魅力が減じる面もあろう*4。ジェンダー社会学やかつてのマルクス史観に沿った歴史学のように、分野全体に問題を抱えている*5場合は、政治的イデオロギーによって適切な記述が排除されたり、不適切な記述が残されたりする恐れもある。

中公新書の品質をどの程度に設定し、どういう方法でそれを維持するのかは中央公論新社の問題であり、外野がとやかく言う問題ではないのだが、高品質な新書を出していくと言うのであれば、査読は有力な選択肢になる。欧米では研究業績カウントされる学術書は査読をつけることが一般的だ。学術書ではないから…と思うかも知れないが、分野外の人や初学者が読む新書だからこそ“意欲的”なものではなく高品質なものの方がよい。実は、査読つきの新書は既にある*6。出版不況で製作コストを上げるのは…と思うかも知れないが、他社との差別化にはなるはずだ。実は自費出版になっている新書のシリーズもある*7が、それらとの差異は明確になる。もちろんそれで儲かるかどうかは知りません(´・ω・`)ショボーン

*1中公新書「ヒトラーの時代」の内容がひどいらしい(7/31追記 - Togetter

*2話題の小説家が書いた歴史本を、随筆にカテゴライズしている通販サイトがあった。

*3数学のテキストで閑話休題の使い方が逆になっているものがあったのだが、学生に原稿を読んでもらっていた気配が…専門知識を要求されないところは読み飛ばされて校閲にならない可能性がある。

*4新奇性を強く求めず、それと分かれば論の飛躍を許す査読方針で緩和できる。

*5追記(2019/08/09 23:27):「補足あるいは訂正を求める」というコメントがあったので補足してみたい。マルクス史観については実証研究が不足した状態で結論を下す傾向があり、内容についてはあちこちで批判されている。日本史研究者の呉座勇一氏の批判的な言及を見かけた人も多いだろうが、例えば「日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか」では明確にマルクス史観による通説を否定している。経済学史に関わる研究を読んでいると、ダメ先行研究として挙げられているのを見ることもあるはずだ。ジェンダー社会学については、実証的な議論を行う訓練がされていない人々をよく見かける(関連記事:ジェンダー論をやっている社会学者は“被害者”, ジェンダー社会学の観点で反ワクチン派叩きを見ると)。医療情報に関して、多数の産婦人科医を相手に言い争っている人もいた(関連記事:ある社会学者の産婦人科医への罵倒に関して)。隣接分野のジェンダー法学も、英語の出典の内容をしっかり読めているのか怪しい研究に、栄誉ある学会賞を出していたりする(関連記事:あるジェンダー論研究者の英語読解能力が示唆するもの)。

*6岩波書店『ジュニア新書』の中の《知の航海》シリーズは、日本学術会議が協力して査読を行っている。専門家が自身の研究テーマについて書き、その研究テーマの別の専門家が査読しているような状態なのだと思うが、拝読したものは素晴らしいものになっていた。

追記(2019/08/09 21:20):「査読・・・?」と疑問を持っている人がいたのだが、シリーズ名が《知の航海》に変わる前の《知のタペストリー》だった2009年の日本学術会議の年次報告書に、「岩波ジュニア新書側の編集担当者による通常の編集手続きに加えて、会員・連携会員による査読と助言の手続きを織り込むことにする」とある。

*7そういう新書が一概にダメと言うわけでもないが、教科書的に信じ込む読書には向かない。

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