2018年11月19日月曜日

ある社会学者の卵の広島・長崎への原爆投下正当論について

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韓国のヒップホップグループ防弾少年団(BTS)が1年前に着ていた原爆Tシャツを擁護するために*1、ネット界隈のフェミニスト2名が広島・長崎への原爆投下を正当なものだと言い張り出し困惑が広がっている。

2名のうち1名、シュナムル氏の方は2年前と逆の主張になっていると指摘されており、ネトウヨの皆様の逆を張った気になっているだけだと思うので、社会学者の卵の古谷有希子氏の方の主張を見てみよう。

彼女の主張の筋は、南京事件や慰安婦問題は「一方的な全く正当化しようのない大規模な暴力」であるが、広島・長崎への原爆投下はそうではなく、日本の「人類に対する暴力」を一刻も早く止める正当性があったと言うものだ。米国や韓国では、そういうコンセンサスがあると説明している。さらに、より低劣な暴力行為をした集団がそれを謝罪し反省していなければ、その集団への暴力は非難すべきではないとも主張している。

広島・長崎の非軍属の一般市民から見て、原爆投下は「一方的な暴力」だったのでは無いのであろうか*2。当時から無差別爆撃は人道にもとる行為だと言う議論はあったし、市街地への原爆投下はその極端な事例だ。日本が敗戦が確実となった1945年8月6日まで続けていた「一刻も早く止める必要があった…人類に対する暴力」とは何であろうか。少なくない人々が正当であると主張する南京事件や(内地及び植民地出身者に関する)慰安婦問題*3を「何一つ正当性はありません」と断言できる理屈を、広島・長崎の原爆投下に当てはめたときに、同じような結論が出たりしないであろうか。米国や韓国でも広島・長崎への原爆投下の是非は議論になっているようだし、少なくとも最近は社会的な強いコンセンサスがあるわけ無い*4。同じことだが原爆投下よりも南京事件や慰安婦問題の方が「より低劣な暴力行為」と言える理由は何であろうか。さらに、日本人が他の問題で罪を認めていなければ、日本人が広島・長崎への原爆投下を批判してはいけないと言うのは、お前だって論法(Tu quoque)と言う誤謬推理である。さらに、集団としての日本人の罪の意識が、個々の日本人が発言する権利を制約すると言うのも奇妙な論理だ。

広島・長崎への原爆投下の正当化の方法は色々とある*5が、古谷有希子氏のものはかなり粗い議論になっている。韓国で朝鮮近代史を学んだそうなのだが、そこではイデオロギーありきの歴史見解が横行していたはずで、一般の批判に耐えない議論であることを認識して欲しい*6

*1韓国原爆被害者協会や(ナチス親衛隊の記章がついた帽子をかぶった写真も広まったため)米ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センターは批判しているが、政治性が強くない若者のファッションをいちいち気にすべきかは定かではない。ゲバラTシャツを着ている人のほとんどは武力革命を支持しているわけではないであろうし、それを見た人が武力革命を嗜好するようにはならないであろう。

*2翼賛体制下で「無辜の人々」など本当に存在したのでしょうか?』と言い出して、批判されている。

*3南京事件は捕虜の大量処刑が問題なのだが、南京占領後の作戦行動に支障が出ないようにする行為で正当性があったと言い張る人々がでて来るかも知れない。慰安所も内地及び植民地出身者に関しては、兵士の性病感染を防ぎ、現地での婦女暴行事件を防ぎ、慰安婦の家族の生活改善になったから正当性があると言う主張はある。

*4従軍経験者が多い社会で軍部の行為を間接的にでも批判する行為は政治的リスクが高いが、2016年5月27日、オバマ大統領は広島の平和記念公園を訪問した。

*5例えば日米の犠牲者数を最小化したと言う議論がある:広島・長崎への原爆投下の是非についての、マイケル・シャーマーの議論 - 道徳的動物日記

*6関連記事:統計からイデオロギーありきの歴史観を批判する「日本統治下の朝鮮」

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