2017年7月22日土曜日

為末大は努力信奉者ではあるが、優生思想の信者とは言えない

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自己啓発が好きな人々に信奉者が多い元陸上競技選手の為末大氏のあるツイートが、優生思想だと非難されていた。「一定数以上、価値を生み出す人がいなくなった国家は力を失いますので…それを回避する程度には私たちは頑張るべき」と言うツイートが、価値を産み出さない人が国家に不要と捉えられ、それが優生思想に思えるらしい。しかし、為末氏の主張と優生思想はかなりの相違がある。

1. 為末氏は努力至上主義者

為末氏は、この世は競争社会なので、人間は努力しなければならないと主張したいようだ。「偉業とは、自らを知り、正しい場所で、正しい方法で、圧倒的な努力をした者にのみ与えられる」と、努力のあり方について持論が続くわけだが、「結果じゃないんだよ、大事なのは努力と苦しみなんだ」とも言っている。為末氏にとって最重要ポイントは努力である。この点を認識すれば「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」も、禁煙など摂生やトレーニングで健康になれる人々は努力すべきとしか考えておらず、もうどうにもならん人のことは想定していない事が理解できる。しかし、優生思想では各自の努力はさほど大事なポイントでは無い。

2. 優生思想を特徴づける人為的な血統改良

優生思想は自然淘汰が機能しなくなった近代社会において、劣悪な血統が増えることを避けるために、人為的に優秀な血統を残そうとする思想だ。戦争をすると優秀な人間を兵隊にして殺してしまうので戦争は止めようと言うような話が当初の議論であった。この優生思想が障害者が重い社会的コストになっていると言う認識に結びついて、障害者の増加抑制策としてドイツに限らず北欧、アメリカ、日本の断種法の制定に結びついた*1。何はともあれ、優生思想であるためには、人為的な血統改良を主張しなければならないが、眺めた限りの為末大氏の過去のツイートではそのような主張はされていない。各自が努力の結果、勝敗が定まるのが世の中だと主張しているだけだからだ。

3. 自然淘汰の定義がちょっと異なる為末語

為末氏が、競争や努力と言う意味で自然淘汰と言う単語を使っているのは、優生思想を連想させる効果を発揮している。それは、遺伝的に人間集団が環境に適応したように変化していくと言う自然淘汰の本来の意味では無いので、混乱を招くから止めるべきだ。

以下のツイートを見ると、違う意味で使っているのが分かる。

なかなかの厨二病?で清清しいと思うのだが、自然淘汰を物事の本源と取るのであれば、社会や規範を構成した人々が自然淘汰の結果として残ったと解釈すべきであって、社会や規範を人間が取り繕ったフィクションと評してしまうのはミスリーディングであろう。普通の意味で自然淘汰と言う単語は使われていない。

意図がわかるようにするのは難しく無い。「自然淘汰」を「競争と努力」と置き換えれば、野生と同様に人間社会も競争と努力で成立していると言う主張になり、努力至上主義の為末節となる。何はともあれ、為末氏が競争や努力と言う意味で、自然淘汰と言う単語を使っているのが分かる。

自然淘汰によってエコシステムは支えられている」も、「競争によって社会は支えられている」と言った方が波風が立たないし、正確に伝わる。為末氏が先天的な能力が低い人は子孫を残せませんと言いたいのであれば適切な表現にはなるが、そうではないと思う。

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