2014年9月27日土曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(10)(11)

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載『リスク・責任・決定、そして自由!』の新記事『「流動的人間関係vs固定的人間関係」と責任概念』『内集団ひいきの武士道vsウィン・ウィンの商人道──システム転換と倫理観のミスマッチ?』が出ていたのだが、一つを今日まで見落としていた。幸い、関連した議論になっているので、2回分まとめてコメントしてみたい。政府が世界をコントロールできることが前提になっているが、そんな力が政府にあるのであろうか。

松尾氏の大雑把な主張は次のようなものだ。社会システムは流動的人間関係と固定的人間関係に分けられ、それぞれに適応した倫理がある。流動的人間関係の社会システムに、固定的人間関係に適応した倫理を持ち込むと、悪い結果がもたらされる。近年の日本では流動的人間関係の社会システムが指向される一方で、固定的人間関係に適応した倫理を強化しようとしてきた。

それらしいのだが、二つ議論が抜けている。

  1. 個人が参加する社会システムに選択の余地が無い事になっているが、実際は職種を選んだり選択の余地がある。ある社会システム内ではゼロサムゲームでも、その社会システムに参加することでプラスサムになっている事はある。すると、反経済学的発想の基本構造(ゼロサムゲーム)を持つように見えても、経済学的発想の典型構造(Win-Win関係)である場合がある。
  2. 社会システムが流動的人間関係になるか、固定的なものになるかが政府が外生的に決めるかのように書かれている*1が、実際は内生的に決定されるときもある。例えば、労働問題の専門家の濱口氏が指摘しているが、日本はジョブ型の法制度の下で、メンバーシップ型の雇用慣行を形成してきた。倫理も内生的に定まる部分もあるであろう。すると、社会システムと倫理のミスマッチはそうは生じない。

連載(11)の最後で、政府が社会システム(流動的/固定的人間関係)と人々の倫理を決定するような議論になっているわけだが、政府を過剰評価していないであろうか?

例え政府が社会システムを決定できるにしろ、それにあわせて倫理が変化していくことは想像に難しくない。繰り返しゲームの長さや構造がかわったら、非協力からトリガー戦略やしっぺ返し戦略に変更するのが合理的な個人だ。そして紹介されている実験経済学でのゲームとは違い、現実経済では取りうる戦略について考えたり試行錯誤する機会は多くある。

ところで批判と言うか難癖を一つ。日本人は武士道型な倫理を持っているように書かれているが、多くの雇用慣行は大政翼賛会体制で生まれたもので*2、言い回しに違和感がある。

*1以下の部分がそれになる。

ところが、小泉改革以降、この国の「改革派」を名乗る右派政治家が押し進めてきたことは、従来の固定的人間関係のシステムを鬼の形相で破壊していきながら、倫理観の方は、国家などの自己所属集団への忠誠を重視する武士道型倫理を押し付けてくることでした。

*2例えばNoguchi(1998)に紹介がある。雇用慣行に関しては、濱口氏がジョブ型からメンバーシップ型へ雇用慣行が変化していく歴史的な経緯を紹介している(日本の雇用と労働法)。

2 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

今回はなんか無理矢理感が強いですねw。

1.は、3ページ目に「どの国、どの時代でも、固定的人間関係と流動的人間関係とは、どちらがメジャーかという比重の違いはあれ、必ず両方存在するのですから、」と書いていますし、おっしゃることは全然否定するものではありません。
(もっとも、固定的人間関係にある旧来企業に入った人が、直面するマーケットはウィンウィンで活動しておきながら、事態をゼロサムゲーム的に認識していることはあり得ると思います。)
2. これもおっしゃることは全く否定するものではなくて、私も、本来政府が上から勝手に決めないで、内生的に出てくるシステムのあり方こそが正常なのだと思います。
 引用いただいた部分は、いささか強引で不自然な政府の意図として、批判的に書いたもので、そのとおりにいくかどうかは状況によるでしょう。経済制度としての固定的システムの解体はある程度意図通りに進んだと思いますが。

 ま、最後のは、おわかりになっているとおり、ご指摘のことは重々承知なわけで、「武士道型」「商人道型」は倫理の普遍的タイプを表す名前に使っているとご理解下さい。さすがに外国の倫理をさすのに使ったら不自然かもしれませんが、使ってもおかしくない位のものです。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん

まいどです。

> 今回はなんか無理矢理感が強いですねw。

何を書こうか迷ったところはあります。

ゲーム理論での戦略の選択のような形で人間行動に影響を与える倫理(もしくは規範)はあるでしょうし、社会システムのもたらす結果に影響を与えると言うところは同意できます。

ただし政策的には、これら倫理と社会システムが内生的/外生的かは問題になってくるので、そこを指摘させてもらいました。もっと具体的な話になってこないと意味が無いわけですが。

なお、一部の政治家が強調する倫理は、支持者層向けのリップサービスで、素朴な感覚を積み重ねたものな気がします。全体としてどういうことになるのか、良く考えているのか不安ですね。

> さすがに外国の倫理をさすのに使ったら不自然かもしれませんが、使ってもおかしくない位のものです。

命名なので「武士道型」でも良いのですが、御指摘の通り、そうするのが民族的な伝統だと押し付けてくるわけで、「大政翼賛会体制型」とよろしくない印象の形容で対抗したくなるのです。

まぁ、あまり気にしないでください(笑)

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