2013年12月16日月曜日

フクシマと書くことで失われるもの

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文芸評論家の東浩紀氏が『福島第一原発観光地化計画』なるものを唱えている。いかにも人文系の人が考えそうな花火の一種で既に多くの批判が寄せられているようだが、この計画を紹介する文章で「フクシマ」と言う表現が多用されている事が気になった。

フクシマと言うカタカナによる表現に違和感を覚える人は少なく無い。理由は明確ではないのだが個人的な感覚を頼りにすると、福島をフクシマと書くことで、(1)福島第一原発の災害・事故前後で別世界になり、(2)日本の他の地域と福島県が切り離されたと認識するような印象を受ける。

この二つの認識を認めてしまうと、事故前の状況に復旧することを目指している人々の努力を否定することになるし、不必要に地域的断絶を連想させる表現は差別的な側面もある。また、深刻な放射能汚染のある地域がずっと狭く、放射性物質への嫌悪感などが日本中に発生した事を無視してしまう。上手い表現には思えない。

表現の自由は尊重したいので批判する気は無いし、語感の問題で批判の根拠も脆弱だし、目を引く単語を並べて妄想力を広げていく文芸評論の世界ではこういう手法に頼らざるを得ないことも理解できるのだが、フクシマと言う単語を使うと倫理や事実認識が失われてしまう気がする。こういう風に感じる人は、他にもいたりしないのであろうか。

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