ジェンダー社会学者の高橋幸氏が表現規制は人権保障のために必要だから、規制すべきか否かを議論していても意味がなく、どう社会実装すべきかを考えるべきと言い出した*1。そもそも問題とされている女性表現は人権を侵害していないから「規制すべきでない」という可能性もあるし、これは詭弁。倫理や道徳は社会の目標なのだから、これらがないと目標なき改革になってしまう。社会学には規範的な基礎になる議論がないのは分かってはいるけれども*2、雑すぎる。
問題部分は以下。
社会における表現の問題に関しては、「規制すべきか否か」をバトっていても、あまり意味はありません。「表現の自由」と「人権保障」の対立が起こったときに本当に議論すべきことは、表現のインフラを具体的にどう設計していくのか(既存の制度のどこをどう微調整・修正していくのか)です。
言い換えると、道徳論争はやっても決着がつかないことはある程度目に見えてるし、消耗率激しいので、お互いそれぞれの道徳感情や正義観があることを踏まえた上で、双方の意見を両立させるために、どういう実装化ができるのかを考えるのが重要ということです。これは別に冷笑主義とかではなく、社会科学というのはこういう営みのことを言うのだと私は理解しています。*1
表現の自由も人権のひとつだと思うがそれはさておき、倫理や道徳をひとつに合意できないから決着がつかないので議論したくないと言うことであろうけれども、そういうときは
- 議論している相手の倫理や道徳を明らかにしつつ、相手の倫理や道徳を用いて表現規制を正当化する(表現の自由戦士も、侮辱や名誉毀損、猥褻物陳列罪あたりの表現規制は認める人々が多いし、個人資産の私的処分のひとつの動物虐待を権利と認めなかったりと、個人の自由を無制限に認めていないので、突破口があるかも知れない)。
- 代表的な倫理や道徳を幾つか借りてきて是非を並べる(経済学であればパレート改善や補償原理を使う事になるが*3、こういう表現の問題であればロールズ主義、功利主義、徳倫理、義務倫理あたりで実際的にはほぼ網羅されていて*4、フェミニスト倫理学者のヌスバウム御大もどこかに依拠しながら議論を展開しているハズ)。
と言うようなことができるので頑張りましょう。女性の尊厳と言うような一見弱い理由でも、皆さん意外にそういうのを尊重していたりするので(e.g. 海外アニメ『サウスパーク』で日本で放送を見送られた回)、論じ方はあるはず。なお、経済学だと、数理モデルや計量分析、その他の記述的分析で実証(positive analysis)し、規範を論じる(normative analysis)ので、社会科学では倫理や道徳を考えないような事は言わないように。
*1【#シンこれフェミ 3-1】ASAに見る、広告における性別ステレオタイプ表象の自主規制 - ポストフェミニズムに関するブログ
*2思想史から考えても功利主義あたりは基本だと思うが、奇妙な理解を開帳する社会学者がいる(関連記事:社会学者が功利主義への誤解を振り撒く)。
*3ミクロ経済学の教科書に載っているこれらだけではなく、もっと多様な議論がある(関連記事:幸せのための経済学 — 効率と衡平の考え方)。
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