『経済学が科学ではない、たった1つの根本的な理由』と言うエントリーが人気になっていた。典型的なパターンなのだが、経済学に対する無知によって構成されている。
問題のエントリーは、科学は(=事実解明的)な側面しかないのに、経済学は実証的な側面と規範的(≒道徳的)な側面があり、用語定義からして規範的な要素を抱えていると批判している。実証的な部分をとれば科学的とも言えるだろうし、用語定義の段階から規範的になっているわけではないから、不正確な主張になっている。
1. 実証的な部分を見れば科学的
経済学では「~はこうなりますよ/~はこうですよ」と言う実証的な議論と、「~はこうあるべきですよ」と言う規範的な議論の見分けは明確につけましょうと言う事になっている。例えば貧乏な家庭の子供に就学前教育を施すと生涯所得が増えると言うのが実証的な議論だが、それで特にメリットの無い金持ちから税金を取り上げてそれを行うべきかは規範的な議論になって、この二つを最初から混ぜることはしない。精度や再現性の問題から非科学的と批判されることもあると思うが、規範的な議論があるからと言って非科学的とは言えないはずだ。
2. 用語定義では規範を考えない
用語定義も規範的な要素は抱え込まないようにはされているし、さらに個々の人間で差異が出るような部分はなるべく抽象化している。だから以下は正確ではない。
「商品」、「サービス」あるいは「価値」や「効用」といった概念の意味は、各個人の価値観を考慮に入れなければ定義ができません。例えば、人間の臓器や、セックスは、「商品」、「サービス」なのでしょうか。
臓器やセックスが財やサービスに含まれるかは、価値判断をする前の議論だから、明確に含まれる。商品になるか否かは、それが交換されているか、交換されうるかの議論になるので、やはり価値判断をする前の議論だ。臓器が現実に商品として流通しているかを調べれば実証的な議論だし、それの是非を議論すれば規範的な議論になる。
問題エントリーのここの部分はかなり奇妙で、ブログ主が実証と規範の区分けがつかない人に思えてくる。法律で殺人を定義したからと言って、法律で殺人が肯定されているわけではないことを思い出せば、用語定義に価値判断が不要な事が分かるはずだ。
3. 効用は仮定で規範ではないし、その要件は緩い
やや技術的な議論になるが、効用についても誤解がある。効用とは、好みを表す選好関係を整理しやすくするための仮定であって、そうあるべきと言う規範ではない。また、効用については各個人の価値観を考慮に入れる必要があるが、各個人が同一の価値観を持っているとは仮定されない。いわゆる効用関数として要求されているのは、あらゆる選択肢に順番がつけられる完備性と、その順番に一貫性があると言う推移性だけだ。
4. ミクロ経済学の教科書を読んでから批判をするべき
問題エントリーは、控えめに言っても意味不明と言えると思う。マルクス経済学の影響なのか、こういう事を言い出す論者は後を絶たないのだが、ミクロ経済学の教科書を読めばこういう事は書いてある。つまり、こういう議論を始める人はミクロ経済学の教科書の内容も理解していない。無知を晒して何が面白いのであろうか。教科書を読むのが面倒な人も、せめて「合理的選択」を読んでから批判をして欲しい。
追記(2013/10/13 15:38):コメントで、この内容では経済学が科学的とはやはり言えないというようなコメントがついていたが、ここでは経済学が科学的と主張しているわけではなく、規範的な議論があることが非科学的と言う結論を導きだせるわけではないと指摘している。つまり、問題エントリーの議論の仕方を批判しているわけで、経済学が科学的と主張しているわけではない。
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