2022年3月30日水曜日

『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』をかつてのPCパーツ好き視点で読むと

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

イマドキの産業組織論(IO)の研究の一般向け紹介本の『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』を拝読した。経済学をほとんど知らない人向けに、需要関数と利潤関数を推定して、それらを元に反実仮想をして問いに答えを出す流れのIOの実証研究を紹介する意欲作になっていて、お題として既存企業がプロダクト・イノベーションを怠る現象「イノベーターのジレンマ」の説明が試みられている。実証している例が1980年代から90年代のHDD市場における5.25インチから3.5インチへの転換事例なのだが、色々と違和感があったので記しておきたい*1

1. 主要部品価格にある内生性

需要と供給の引き合いである価格は内生変数なので、価格で需要を説明する需要関数は単純な回帰分析では推定できない。そこで本書(の土台になった研究)ではHDD部品コストを操作変数として用いているのだが、HDDの部品が何であるのかと言うドメイン知識が邪魔して、HDD部品コストが適切な操作変数として受け入れられない。HDD製造者が購入している部品は、(1)磁気ヘッド,(2)プラッター(円盤),(3)コントローラーやインターフェイスと言った回路部分の半導体、(4)金属の筐体などがすぐ思い浮かぶ。このうちお値段が張りそうな磁気ヘッドとプラッターはHDD専用部品になるので、価格はHDD市場規模に依存しそうだ。「関係を疑いだしたらキリが無いのだが、その辺りの「大人の事情」は割愛する」(p.169)とだけでは正当化が足りない。

2. 3.5インチHDDの革新性

3.5インチHDDの革新性について、根本的に誤解があるかも知れない。Rodime社の特許が認められて、3.5インチHDDがRodime社の独占販売になった反実仮想の話で「HDDは大幅に値上がりし、その分パソコンも割高になる」と書いてある(p.302)のだが、3.5インチHDDは容量あたりの製造コストは5.25インチHDDに劣るから、この認識は適切ではない。

5.25インチHDDの方がプラッターが大きいので、その分、容量を増やすか、プラッターの枚数を減らしたり記録密度を下げることで廉価にすることができる。実際、1996年頃、Bigfootと言うブランド名の廉価な5.25インチHDDが売っていた*2。3.5インチHDDのアドバンテージはコンパクトな筐体に収納できることが利点で、廉価にできるわけではない。なお、ミドルサイズ以上のデスクトップPCであれば、5.25インチベイの空きがあるので、5.25インチHDDは難なく搭載できた。

Google ResearchのBrewer at el. (2016) "Disks for Data Centers"でも、

A larger platter size increases GB/$, but lowers IOPS/GB, while smaller platter size results in the opposite.(拙訳:より大きなプラッター・サイズは1ドルあたりのギガバイトを増やすが、ギガバイトあたりの入出力速度を落とす一方、より小さなプラッター・サイズは反対の結果となる)

と5.25インチは速度面では3.5インチより不利だが、価格面では有利と解釈できる。

図表6–2上(p.168)のHDD販売価格で5.25インチの方が高いこと、図表7–3上(p.200)で5.25インチの製造・販売コストが高いことから、5.25インチHDDは高いと言う話になったのであろうが、どうも容量あたりの価格で見ずに、一台あたりの平均単価を見ているから解釈がおかしくなっている気がする。汎用機か何かの大型計算機向けの商品は、大容量の高級品になりがちで、これが製造販売コストを引き上げてはいないであろうか。

3. 市場拡大期に共食い効果は生じるのか?

同質財で需要の代替効果が大きく、3.5インチHDDを販売すると5.25インチHDDの売上(か価格)が落ちると言うストーリーは分かるのだが、同質だけに3.5インチHDDが5.25インチHDDを駆逐するようなことは考えづらい。実際、1983年に3.5インチHDDの発売された後、5.25インチHDDの売上が落ちるまで7年かかっている。

3.5インチHDDと5.25インチHDDで記録容量、読み書きの速度、製造コストでの差異は大きくない。同じPCの中に5.25インチHDDと3.5インチHDDを入れることができた。省スペースPCを販売したい顧客は3.5インチHDDを選択するしかないが、HDD市場は拡大しているため5.25インチHDDの生産能力が余ることはないし、3.5インチHDDが発売された後もハイエンド帯では5.25インチHDDの需要は堅調であった。1980年代は5.25インチHDDを1つ追加供給する5.25インチHDD価格下落効果と、3.5インチHDDを1つ追加供給する5.25インチHDD価格下落効果に、差異はなかったように思える。

共食い効果を恐れる必要も大きくは無い。毎年、型落ち製品を価格を下げて在庫処分をするなりしていたわけで*3、3.5インチHDDによって5.25インチHDDが古臭い商品になったとしても、情報処理機器としては通例のことで対応に困るわけではない。製造ラインもどんどん刷新していくわけで、5.25インチHDDの製造ラインを保持してもさほど利益貢献にならない。さらに、同質財だけに5.25インチHDDの製造ラインを3.5インチHDDに置き換えるのは、そんなに難しく無いハズ。本書でも5.25インチHDDを製造してきた既存企業の方が、研究開発能力が高いと指摘されている。

つまり、3.5インチHDDを売ることで5.25インチHDDの売上が落ちる心配は、将来予見が完璧であればしなくてよかった。3.5インチHDDを売るのを躊躇ったとされるSeagate社は1987年には3.5インチHDD(e.g. ST125)を売っており、寡占化が進んだ2021年のHDD業界でトップシェアを持っている*4。共食い効果を恐れてプロダクト・イノベーションが遅れたというよりは、当時のHDD市場の限界的な部分である3.5インチHDDの需要を正しく低く見積もっていただけでは無いであろうか。

Seagate社が3.5インチHDDの販売を躊躇っているのに反発した従業員がスピンアウトして設立したConner社は、大手PCメーカーCompaq社に3.5インチHDDを提供することで急成長を果たすが、同業他社比較で低利益率に苦しみ、製品パッケージを廉価なものにして不良品を増やしてしまい、最後はSeagate社に吸収された。そもそもHDD市場は過剰投資になりやすい。IBM社と契約をすることで1983年に上場を果たしたMiniScribe社は、翌年の1984年に業績不振でレイオフを実施している。業界首位にもなったQuantum社はHDD部門の営業赤字に苦しみ、HDD部門を売却した。

4. まとめ

経済学の構造推定の紹介本としては興味深いのだが、5.25インチHDDから3.5インチHDDへのプロダクト・イノベーションを用いた「イノベーターのジレンマ」の実証は、かつてのPCパーツ好き視点で読むと色々と謎であった。あまり詳しい説明をする本ではないので、元の論文を読んだら解決しそうな気もするが。ところで昔のHDD業界事情については、連載「ASCII.jp:業界に痕跡を残して消えたメーカー」の「Seagateから独立したHDDメーカーConner」と「HDDシェアNo.1だったQuantum」で記憶を確認した*5

*1本書の元になった論文を読めば解消する気がするが、もう少し説明があっても良いはずなので。

*21995年から数年売られていたQuantum Bigfootは、5.25インチのプラッターサイズを活かした大容量と高速シーケンシャルリードを活かして、少ないプラッターとヘッドの数・低回転による小型モーターによる低コストを実現しようとした製品で、シーク速度が遅いのが欠点であった。お値段は、既に3.5インチ全盛でプラッター価格が逆に高くなってしまったせいで、多少安かった程度。

*3モーター、プラッター、磁気ヘッド、インターフェイス、キャッシュメモリ、オートリトラクト機能、ヘリウムガス充填などで、旧技術の製品を時代遅れにする技術が毎年のように導入されて来た。

*4SSDの開発・販売には乗り遅れているが、SSDはWestern Digital社以外は半導体製造業がシェアの大部分を占めている。

*5実は知らなかったことも、以前から知っていたかのように書いている。

0 コメント:

コメントを投稿