2021年3月24日水曜日

徳倫理は専門家にお任せと言う意味でのエリート主義ではないよ

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社会哲学者の稲葉振一郎氏が新著の宣伝で「権威主義はびこるダークな世界で、エリート主義な「徳倫理学」が流行る「意味と危うさ」」と言うエッセイを書いているのだが、徳倫理が専門家にお任せすればよいと言う意味でのエリート主義になっていて奇妙な話になっている。エリート主義と評されることがあっても、それは美徳を知るエリートでないと幸福になれないと言う意味で、職業的専門家依存主義ではないから。

学問的に裏打ちされた代表的で古典的な倫理を3つ挙げるとすると、ベンサムからの功利主義、カントからの義務倫理、アリストテレスからの徳倫理になる*1。倫理学の教科書的な本を読むと概要が大雑把につかめるのだが、美徳(倫理的な卓越性)は適切な経験の積み重ねによって得られるので先人に習って鍛錬せよと言う様な話で、道徳的な卓越者とそれ以外がいるという意味ではエリート主義的なのだが、専門家にお任せと言う話にはならない。

稲葉氏の「「インフォームド・コンセント」よりも専門家の自律的な職能倫理を重視する」のが徳倫理学的な発想と言うのは謎で、むしろインフォームド・コンセントが上手く機能している方法、道徳的振る舞いなのであれば、それを規範(職能倫理)とすべきと言う話になる。稲葉氏が危惧する権威主義や差別を肯定するかも分からない。アリストテレスの議論では政治参加して修練しないと卓越者になれないから、非民主的な体制と言う意味での権威主義は肯定されない。道徳的な卓越者に報いよと言う話にはなるかもだが、地位や財はそれをもっとも生かせる人物に与えよと言う目的論的思考があるので、卓越者を独裁的指導者に仰ごうなどと言う話にはならない。差別の方は、アリストテレスは奴隷を肯定していたので親和性が一見ありそうだが、市民が政治参加するのに代わりに仕事をする奴隷が必要だとか、目的論から奴隷向きの人間は奴隷にしても自然と言う無茶な話で、徳倫理から導き出されるわけではない。

徳倫理以外のところも危うい。「専門家と非専門家との間の、同じ市民社会の成員、同胞としての対等性」が無いと功利主義や義務倫理やロールズ主義の限界が露呈するかと言うと、応用功利主義者のピーター・シンガーの安楽死や人工中絶、動物倫理の議論を見れば分かるように、問題は生じない。犬猫もパーソンと認めているわけで、道徳的受益者は「自らの権利を決して自ら主張しえない存在」であってもよい。カントの義務倫理も、他者の権利主張によって格率が定まるわけではないし*2、他者を自己利益を得るための道具として扱わなければ他者の尊厳が守られるわけで、専門家と非専門家の差異程度の非対称性であれば問題ない。カントの議論だと、自然法則と因果律から自由に思考することのできない犬猫は、そもそも尊厳ある人格ではないが。ロールズの『正義論』が出た後に、カント的義務倫理と功利主義の対決がなされてきたとあるが、無視されているロールズ主義の立場が無い。

ところで今も昔もロールモデルに習って人生設計を行う人は多いという意味で徳倫理は人々の中に現役だと思うが、最近、アカデミックな研究以外で、徳倫理がとくに流行っていると言えるのであろうか。キャンセルカルチャーは失言をした人を引きずり落とすタイプの徳倫理と言えるかも知れないが、さすがにアリストテレスからの系譜からは外れるような。

*1功利主義と徳倫理は原典から発展していっているので「からの」。義務倫理が発展しているかは確認していないが、していると期待したい。

*2利害関係も因果律に含まれるので、自然法則と因果律から自由に思考することができれば、必ず同じ道徳法則に達することになっている。

1 コメント:

dflove さんのコメント...

>アリストテレスの議論では~卓越者を独裁的指導者に仰ごうなどと言う話にはならない。

プラトンは「哲人政治」でほぼ「卓越者を独裁的指導者に仰ごう」と同趣旨のことを言っていましたが、このプラトンの考えをアリストテレスは継承しなかったということでしょうか?

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