朝鮮人慰安婦に関するラムザイヤー論文(Ramseyer (2021))で、『サンダカン八番娼館』を不正引用していると言う批判があるのだが、批判されている箇所のすべてが批判どおりとは言えないので指摘しておきたい。なお、朝鮮人慰安婦と『サンダカン八番娼館』のおサキさんの類似性について説明がないし、『サンダカン八番娼館』に関する部分も無罪とは言いがたいので、ラムザイヤー氏を擁護する気はないので悪しからず。
ラムザイヤー論文の議論の前提を支える部分は二つある。
- 数え年で9歳のときにからゆきさん(東/東南アジアで働く娼婦)になると決断したおサキさんなる女性の決断は、娼婦になる利益・不利益を正しく評価したものか?(つまり、騙されていないか?)
- 前借金が未返済で娼館経営者が保有権を持った状態でも、おサキさんらからゆきさんは逃亡と言う対抗措置を持っていたか?
(1)に関しては、"The recruiter did not try to trick her; even at age 10, she knew what the job entailed(拙訳:女衒は彼女を騙そうとはしなかった。10歳*1ではあったが、彼女はその職務が伴うことを知っていた)"とラムザイヤー論文では説明している。この文、正しいとは思わないのだが、本当は女衒が彼女を甘言で騙したと言うのも正しくない。
(1)の前半の文は誤りとは言えない。おサキさんの村落は大量のからゆきさんを出している(p.72)ので、村落ではからゆきさんと言う職業の情報は豊富であったと考えられる*2。村落では周知だが、おサキさんは知らなかったと言う話も考えられるが、「親方と兄さんといろり端へ座りこうで、長か夜の更けるのもかまわんで話ばしておったい。」(p.74)と、親族がいる場で決めている。おサキさんの姉が既にラングーンでからゆきさんになっている(p.71)ので、兄が無知であったとも考えづらい。なお、ここはラムザイヤー論文でも"She discussed it with her brother,"と言及がある。
(おサキさんの4歳上に過ぎない)兄も騙された可能性もあるが、「兄さんは、うちの前にこうやって両手ばついて、「どうか、外国さん行ってくれ」と頼みなさった。」(p.75)そうなので、兄はおサキさんの身にかかる不利益を理解していた蓋然性は高い*3。良い話しか理解していなかったら、土下座はしない。女衒と兄が結託しておサキさんを騙した可能性も残るが、おサキさんは兄に騙されたとは言っていないし、金銭的に余裕が出来たときは、兄に送金をしている。また、見送りの母に、「おらあどげな辛かこともがまんして、一番早う帰るけん」(p.79)と言っているし、女衒から念を押されると怖くなったとも言っている*4。
ただし、具体的かつ詳細に業務内容を説明した可能性は低い。娼館経営者に客をとれと言われたとき、おサキさんらは「小まんかときは何の仕事と言わんで連れて来て、今になって客ば取れ言うて、親方の嘘つき!」(p.89)と言い返している。初めて客を取る前に怖れをなして言った話なので、ぼんやりとでも業務内容を分かっていなかった根拠として決定的では無いが、分かっていたとしてもぼんやりな事には注意が要る*5。おサキさんの兄は300円*6を受け取り、おサキさんは3年ほど経ってから2000円を返済する契約になっていると言われて不満に思った(と考えられる)部分がある(pp.92–93)ので、契約が具体的にどうなっていたかは分かっていない。
コミットメント自体は守られていた蓋然性は高い。毎月100円づつ稼いで借銭300円を返済すれば返れると言う話であれば、渡航期間を除いて3年3ヶ月で帰ってこられるような想定になるわけだが、5年で帰れると言われた/思ったとは書いていない。また、2年後に娼館経営者が死んだときにおサキさんの保有権の価値は200円になっていた(p.107)ので、娼館経営者の金勘定が胡散臭いのにも関わらず、おサキさんは有利子負債1800円の圧縮が出来ている。前借金を返して自由になったと思われるからゆきさんも出てくる(p.102)し、「外国さん行けば、毎日祭日のごたる、良か着物ば着て、白か米ンめしばいくらでも食える」(p.75)と言う女衒に言われた話は、日本の村落にいたときよりも食事が大きく改善されたとある。
こういうわけで(1)の後半の文"even at age 10, she knew what the job entailed"は、ミスリーディングになっている。おサキさんは兄に損得勘定を委任したので、自分が具体的に何にコミットメントしたのか把握していなかったと解釈すべきだ。しかし、批判者の女衒がおサキさんを甘言で騙したような解釈はおかしい。
(2)に関して、ラムザイヤー論文では"even overseas, women who disliked their jobs at a brothel could – and did – simply disappear"と言っているのだが、批判に関わらず、おサキさんの話からは誤りとは言えない*7。娼館経営者(由中太郎造どん)が死んだ後、前借金が残っていたおサキさんら3名は、タワオで娼館やっていた松尾さんに保有権が売られる。しかし、松尾さんが借銭を不当に増やしたのでタワオから3人で抜け出し、船上で相談。サンダカンに戻ると連れ戻されるから、シンガポールにいって娼売を続ける案に対して、サンダカンに戻って木下おクニさんを頼ろうと言う対抗案を出し、後者に決定している(pp.103–104)。おクニさんを頼った理由は、シンガポールに行っても逃げ切れないと考えたからではなく、仲良しのおフミさんと会えなくなるからだ(p.104)。
歴史の学術論文としての品質を満たした引用とは言えないし*8、大正の天草出身者のからゆきさんと、20年後の昭和の朝鮮人慰安婦*9の類似性をもっと議論しないと外的整合性が分からないが、ネット界隈の批判がすべて妥当だとは言えない。この明快に嘘だと言いづらい微妙さがラムザイヤー氏の悪い技な気がするのだが、批判に同調したい人には『サンダカン八番娼館』のおサキさんの話(pp.65–141)を一読してみることをお勧めする。ただし、ここを読んで、おサキさんは生活環境が改善して金銭的利益もあったのだから、貧乏に産まれたのが不幸なのであって、南方の娼館に売られたのは悪い事ではないと思った人は、他の章もをよく読んで再考して欲しい。考えが変わるかは分からないが。
*1正確には、からゆきさんになると決めたのは9歳で、村を出たのが10歳である。
*2定期的に女性を勧誘しないといけないので、騙すと風評の悪化と言う制裁を受ける可能性も高そうだが、このようにゲーム理論的な推測で歴史を考えるのは良くないと言う批判がゲーム理論家から出ている。
*3おサキさんは、同年代のおハナも行くのであれば行くと契約に至る条件を追加しており、兄以外に他の家族も使って情報生産をしている。
*4風俗店の面接に行くと仕事は過酷だと脅されることもあるそうなのだが、どんなにつらくても金を返すまでは日本に返さないぐらいは言われたのかも知れない。
*5客を取らされる前は「お娼売がどげなもんか、うすうす見当はついとっても、本当のことは誰も教えてくれんし、訊かれもせんし、悉皆わからんたい。」(p.86)と言う話がある。
*6おサキさんの生年は1909年と考えられているので、1919年の金銭価値となる。1922年~1929年の農家の年間家計収支の平均は世帯人数6.85で1045円なので、今で言うと300万円ぐらいの感覚であろうか。
*7おサキさんが例外な可能性、おサキさんの状況把握が間違っていた可能性は残る。また、雇い主が変わっても娼婦以外にできる仕事は無さそうだったので、jobが変えられるのかはよくわからない。
*8細かい部分は荒い。"Other women in the community had worked as prostitutes abroad, and had returned with substantial sums of money(拙訳:共同体の他の(母親以外の)女性は海外で働いた事があり、多額の金銭を持ち帰った)"とあるのだが、村落でからゆきさんになったのは20名強(p.72)だし、「おサナさんとおカズさんを別にして、みんなむかしも今も良か思いはしておらん」と明確な成功者は2名だ(p.73)。身請けされた後のおサキさんはかなりの金額を兄に送金しているし、それなりのお金を持ち帰っているので同様だと推測したのかも知れないが、他の人の金銭的な利益は多く語られていないし、不幸になった人の言及が幾つもあるわけでミスリーディングしている。
*9同じ朝鮮人慰安婦でも就業していた年代(e.g. 1944年末迄に年季明けできたか否か)と、内地/植民地と占領地、占領地でも前線と比較的後方で状況が異なるので、場合わけをした議論が要る。
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