2018年11月23日金曜日

従軍慰安婦は朝鮮に実質的にほとんど送金できなかった説の弱いところ

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ネット界隈に限らずだが、左派の間に京都大学の歴史家、堀和生氏が唱えている「慰安婦が慰安所での稼働で一定の収入を得ていたことは事実であるが、占領地域から日本への送金には様々な規制があり、預金凍結措置によってその引き出しには厳しい制限が加えられていたので、(実質的な)利益を享受できなかった」と言う説*1が定着したようだ。信じている人は悪気はないのだと思うが、この説は脆弱な面があるので、もう少し批判的に検討する必要がある。

1. 前借金で受け取ったお金は送金規制に影響されない

(内地・朝鮮・台湾出身の)慰安婦は概ね1年~2年で前借金を返済し、もう1年で貯金をつくって朝鮮に帰っていったと言われている*2収入の約半分は前借金として先に朝鮮で受け取っていることに注意して欲しい。前借金の返済分は戦地からの送金規制に影響されないし、さらに終戦で支払いを踏み倒されたとしても利益を享受できている。なお、インフレーションで慰安婦の貯金の実質価値が目減りしていたと言う主張もあるが、名目収入は増えているわけで、前借金の実質価値も急激に低下した。

2. 送金規制の影響も1945年3月まではほとんど無い

送金規制の影響も、送金規制の開始時期に注意して議論する必要がある。慰安所は1930年代から1945年の終戦まで存在したのだが、本格的な送金規制は1945年4月からなので、1945年春までに年季明けをした慰安婦には大きくは影響していない。

堀氏も参照している『占領地通貨金融政策の展開』の対日送金抑制策(pp.462–466)の所に送金規制の展開が説明されているのを参照しよう。1945年1月10日からは20万円未満の場合、送金額の4分の3を半年間、外貨表示内地特別預金として保持となったが、3月23日には「現地応召者家族の生計費確保のため,1万円以下の送金を認め,外貨建預金とし払出しを要許可とした」と緩和されている。

実際、2012年に発見された慰安所管理人の日記には1943年~1944年に頻繁に送金をした記載がある一方、堀氏が強調するような封鎖預金という規制については記載が無い。野戦郵便局での送金には兵站司令部、銀行での送金には軍政監部の許可がいることは記してあるので、規制はあったが記さなかったと言うわけではないようだ。1945年までは封鎖預金は無かったと解釈すべきであろう*3

3. 預金凍結の影響を打ち消す内外インフレ差による収入差

1945年春以降、送金規制は強化されるが占領地で収入のある慰安婦に一方的に不利であったわけではない。封鎖預金の比率よりも、内地と占領地のインフレーションの差の方が圧倒的に大きいからだ。占領地ではインフレで収入の実質価値が横ばいでも、為替レートが固定されていたために内地での実質価値は膨大になった。

占領地通貨金融政策の展開』によると1945年4月19日以降は急激に規制が強化され、送金額、送金目的、送金元地域により送金額の9/10から69/70が封鎖預金に当てらるようになり、1945年8月13日には調整金徴収制がとられ、1人限度50万円までとして華北5,000%、華中7,000%の超高額の“調整料”が徴収がされた。

一方、巻末の付表3を見ると、内地と占領地のインフレ率の差が大きい。重慶では1944年6月~1945年6月の1年間で東京の700倍のインフレであった。ビルマなどでどうだったかは分からないが、元慰安婦の文玉珠氏の郵便貯金の記録をみても、終戦に近づくにつれて急激に額が増加しているので同様であろう。送金規制は、このインフレが内地や朝鮮に波及しないために行なわれた。

固定為替制度が維持されていたので、占領地でほぼ無価値な1円(相当とされるルピー)でも、送金さえできれば内地で価値ある1円になる。最も運が悪くて占領地から内地への送金は1/70に目減りしたのだが、インフレにより占領地と内地の収入格差は何百倍にも開いていたので、送金で失う実質価値は無かった。占領地での生活悪化をもたらすインフレーションだが、こと送金に関しては固定為替制度のために慰安婦に有利に働いた。送金規制も内地や朝鮮のインフレ抑制に機能した点は、慰安婦の利益になっている。

4. まとめ

文玉珠氏の高収入自慢と、それを裏付ける郵便貯金の記録から、ネトウヨの皆様は慰安婦高収入説を唱えている。ネット界隈の左派は、その慰安婦高収入説を否定したいがために、終戦間際の送金規制と占領地のインフレーションを強調しているのだが、送金規制の開始時期を確認していないし、為替レートが固定されていたために占領地のインフレーションがむしろ送金規制の不利を相殺して余りあったことに気づいていない。送金規制とインフレーションでは、慰安婦高収入説を覆すことはできない。

ただし、慰安婦高収入説には他に疑問があって、占領地の兵士の実際の収入と比較していない可能性がある。慰安所や慰安婦に料金とチップの形でお金を払っていたのは兵士であって、彼らの収入が増えなければ慰安婦の収入も増えない。俸給表と外地手当から出した将校の給与と比較していることが多いが、インフレーションに応じて金額が足されていったのでは無いであろうか。従軍した人の証言があればすぐ分かることだが、この想像が正しければ内地ではなく外地の将校よりも慰安婦が高収入であったかは定かではなくなる。

*1堀和生(2015)「東アジアの歴史認識の壁」京都大学経済学研究科東アジア経済研究センターニュースレター,第555号

*2「慰安婦と戦場の性」(pp.382—393; C井上源吉憲兵曹長の証言)にあるが、2012年に発見された慰安所管理人の日記でも年季明けによる帰郷は頻繁に記録されている。

*3ただし、なぜか日本兵に内地からの送金を依頼した逸話が残っているので、場所もしくは慰安所経営者の能力によっては容易ではなかった可能性もある。「慰安婦と戦場の性」(p.392)に時期が不明なのだが、「(市川靖人飛行兵曹は)遊んだ相手の朝鮮人慰安婦に頼まれ、木更津から朝鮮の両親に二百円の現金を送ってやったが、山梨県の田舎なら小さな家が一軒建てられるなあと思ったそうである」とある。

1940年に支那派遣軍経理部が配布したパンフレット「軍票の栞」の記述によると「特別の許可なき限り、現金の内地への携帯持ち込みは一人当り二百円まで、送金は五百円までと制限されている」とあり、慰安所経営者が特別の許可を取れないぼんくらだと、慰安婦はせっせと自分で分割送金をする羽目になったかも知れない。慰安所経営者の日記からすると日額制限なので、営業日20として月に1万円ぐらいは送れたはずだ。

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