2018年8月2日木曜日

日本の中世の信仰事情が分かる「戦国と宗教」

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戦国時代はドラマや小説で人気の題材で、たまにテレビ番組で歴史研究が紹介されたりするものの、様々な経緯で色々と誤解が多い*1。そのためか、蘊蓄を語るのが好きな人が多いTwitterらんどでは、鎌倉から江戸、中世から近世の小ネタが人気である。当時の宗教についても誤解が多いそうで、「戦国と宗教」と言う本が紹介されていた。

誤解する以前に、当時の宗教についてイメージが沸かないのだが、為政者と宗教団体との関係について詳しく説明されている本書を読んで多少はマシになった。武田信玄や上杉謙信の寺院との関係、織田信長と一向衆(と言うか石山本願寺)との対立、大友宗麟のキリスト教への改宗、豊臣秀吉のバテレン追放令などの経緯の説明から、当時の宗教観をあぶり出していく。

従来思われてきたよりもずっと宗教間対立は小さく、共存共栄が原則とされていたそうだ。そもそも、仏教の宗派間どころか、仏教と神道、仏教とキリスト教の違いも大してつけないで信仰されていたらしい。どのような信仰の形態をとろうとも、神仏はつながっているから無問題ぐらいの感覚で、参拝したら合戦に勝った、病気が治ったと言うような縁起を担いで信仰を決める。

著者はこれを「天道」と言う思想だとしているが、領国内で対立をしてもらいたくない為政者側の都合もあり、信仰は個人の自由であり、排他的、強制的な布教活動は、社会規範に反していると考えられていた。織田信長は、宗論を仕掛けて回っていて、このルールを破りかねない法華宗を諫めたし、豊臣秀吉は、明らかに破っていたキリスト教の宣教師を追放した。

意外に現代的だなと思うかも知れないが、激しい宗教戦争のあった欧州でもカトリックとプロテスタントが共存している地域も多く、そう日本が特異とも言えないらしい。平安仏教と鎌倉仏教で激しい対立構造があったわけでもなく、石山本願寺は宗教団体と言うよりは荘園領主として外交判断によって織田信長と対立したと言うのに驚きを感じる人には、きっと面白い本であろう。

*1歴史小説家の創作が独り歩きする事例は多いが、近世、江戸時代の叙述家・沢田源内による創作など偽史の歴史は古い。もちろん、昔の歴史家が雑な結論を出していたものもある。

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