2017年8月24日木曜日

外交だけではどうにもならない事が分かる『戦前日本の「グローバリズム」』

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お茶の間で人気の国際政治学者・三浦瑠麗氏の“戦前の方が国家観・歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育っていた”論の元ネタとして『戦前日本の「グローバリズム」』が紹介されていたので拝読してみた。戦前の政治指導者や思想家にトンデモ感を感じたので、三浦女史の元ネタでは無いと思うが、1920年代後半から終戦までの日本の外交政策や市民意識に関する通説を否定している本で、中身自体は興味深かった。

理路整然と言うか、章の最後にそれぞれまとめがあって、歴史の本としては主張がはっきりしている方だと思う。色々と通説には、大きなものとは思えなかったのだが、誤解があるらしい。

1930年代の日本は、満州国を含めた経済ブロックを作って自給自足圏を構築することを目指していたように理解されているが、実際は政界・経済界の満州への期待・関心は薄く関東軍が危機感を持つほどであり、満州には米国など外資を誘致して開発を行なおうとする一方(第Ⅰ章)、通商自由の原則を掲げて外交政策を展開しており、また自由主義の通商貿易政策は成果を挙げたそうだ(第Ⅳ章)。国際連盟脱退は対外強硬路線に思われるだろうが、国際連盟が対日非難報告と勧告案を可決した状態で軍の暴走が続くと国際連盟の制裁行動を招く事になるので、それを避けようとした国際協調派の外交官の意向であり、実際に国際関係は脱退後、持ち直した(第Ⅱ章)。日本外交は国際協調の意義を理解し、1937年までは、何とか実行していたと言う事になる。

軍部は、外交方針を理解もしくは納得していたわけでは無い。1928年の張作霖爆殺事件も、1931年の柳条湖事件も外交官らが描いたプランを破壊するものであった。石原莞爾ら関東軍は満州の併合を狙っていたわけで指揮命令の乱れは激しい。1932年の五・一五事件で政党政治が崩壊した後は、外交官も軍部が勝手に動く事を想定して外交を展開しており、コントロールを失っていく。陸軍主導で進められた1936年の日独防共協定は何とか骨抜きにされるが、1937年の盧溝橋事件の後は近衛内閣の右往左往もあって、従来路線の維持が不可能になったようだ。知識人にも変化があったようで、蝋山政道のように従来路線に近い考えの政治学者がいた一方、矢部貞治はファシズムを受容し対英米強硬論を唱える。1940年に第2次近衛内閣は大東亜共栄圏と言う標語を出したが、英米との対立が明確になり、経済制裁を受けるようになる。

最後の3ページの現代政治に対する含意は意味不明であったが*1、ファシズムの捉え方の変遷や、挙国一致体制の成立過程、日中戦争の膠着や南方進出に伴なって公的機関によるアジア研究が開始され一般市民が中国と南洋に興味関心を持つようになる話などもあって色々と興味深い。しかし、色々と高尚なことを考える人がいたようだが、全体としては軍に振り回されて何も実現できなかった感を強く持った。戦前の知識人、国際関係よりも先に軍の統制方法を考えるべきでは無かったであろうか。何はともあれ、三浦瑠麗氏の“戦前の方が国家観・歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育っていた”論を支持するものとは思えなかった。

*11930年代は大きくみて失敗であったわけで、そこから含意を導き出すには、もっと議論が要る。また、1930年代と現代日本の状況が似ているかと言うとそうでもないであろう。先進国の経済力が相対的に低下する一方、新興工業国の経済力がとみに増してきていて、もはや当時の日本ほどアジアで相対的な力を持っているわけではない。さらに、「国際標準の日本政治」が必要と言われても、議会制民主主義が国際標準と異なるとは言えないであろうし、雑すぎて意味不明であった。

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