ポモ好きの思想史研究者・仲正昌樹氏が、『ピンカーが(「人間の本性を考える」で)哲学における「ブランクスレート」説として念頭に置いているのは、“ポストモダン”ではなく、イギリス経験論に代表される近代哲学全般』と主張していたので検証してみたのだが*2、イギリス経験論自体は肯定もしていないが、批判もほとんどしていない。ピンカーが熱心に批判しているのは、彼らの説を極度に単純化した後の世代の心理学者・社会学者・思想家、特に20世紀以降に新たな科学的知見を政治的に拒絶した人々であって、近代哲学全般を批判していると言うのは勘違いに思える。また、デリダなどポストモダニストへの言及もそれなりの分量、ある。
1. 経験論を極化した人々を批判している
イギリス経験論の中では、ジョン・ロックとジョン・スチュワート・ミルをブランク・スレート説の源流として紹介はしているが、ロックの場合は王侯貴族や教会などの権利を保障する、ミルの場合は女性参政権や義務教育や貧困対策などに反対する根拠を与える、極端な生得観念説を攻撃する術として用いたと、ピンカーは紹介している。しかし、ロックやミルが才能・能力と言った生得的な要素の存在を否定したとは指摘していない。ロックに関しては悟性と言う生得的な要素を導入した事が言及されている。一方で、イギリス経験論の影響を受けた行動主義の心理学やボアズ以降の社会学は、本能*1と進化を嫌悪したと明確に書かれており、問題視されている。
ピンカーが批判するブランク・スレート説は、本能が慣習に影響を与える事を否定し、慣習が本能をつくりだすとまで言ってのけるぐらい極端なものである(P.59)。イギリス経験論が主張している範囲だけでは、ピンカーの批判対象にはなりえない。(ピンカーは議論していないが)イギリス経験論の代表とされるデビッド・ヒュームは、人間は共感によって他人の幸福や不幸が自分の快楽や苦痛になる生得的傾向を持つと指摘しており、本能が慣習に影響を与えるとしている。実際、ピンカーはイギリス経験論の影響を受け、全ての民族が優れたヨーロッパ文明を獲得する能力があるとしたボアズについて高く評価している(P.55--57)。経験論自体は問題にしていないと言えるであろう。
2. 近代哲学は網羅しておらず、それへの批判もほぼ無い
近代哲学全般を批判していると言うのはどうであろうか。ピンカーが、ブランク・スレート説だけを批判しているわけではなく、ブランク・スレート×高貴な野蛮人×機械の中の幽霊の3点を批判しているのは確かだ。高貴な野蛮人(ロマン主義)は、フランスのルソーが源流だと説明している。機械の中の幽霊(二元論)の源流は、これまたフランスのデカルトだ。しかし、イギリス経験論に分類されるはずのホッブズは否定的に捉えられていないし、カントをはじめとして世界史の教科書に載っている級でも抜けは多い。全般を批判しているとは言えないであろう。また、ピンカーは19世紀までの哲学者であるルソーやデカルトは間違っていたと結論しているが、非難めいた言及はしていない。この3点セットの20世紀の信奉者への言及と比較すれば、近代哲学は3点セットの信奉者までの思想の流れの説明として出てきただけで、本題ではないのは明らかだ。
3. 強く非難されているのは、20世紀の3点セットの信奉者
ピンカーが強く批判しているのは、明らかに現代のブランク・スレート×高貴な野蛮人×機械の中の幽霊の信奉者たちだ。第6章と第7章で、20世紀後半に新たな科学的知見を政治的に拒絶し攻撃した人々を、詭弁だと非難している。また、この批判対象にポストモダンはしっかり含まれている。第12章、第20章、第Ⅵ部にしっかりデリダなどの具体的なポストモダニストの名前を挙げつつ批判が行なわれている。ポストモダンを狙い撃ちにしているとは言えないが、ポストモダンも射程に入っているのは明らかだ。ピンカーは明らかに、ポストモダンもブランク・スレート説に入ると考えている。仲正昌樹氏、まさか参照している本の第1章の3ページ目までしか読んでいないって事は無いよね・・・?
*1獲得的な性質に依存しない行動を本能と言うのではないかと言う指摘があったのだが、参照している訳本では遺伝的要因と本能を同一視していると考えられるので、そのまま踏襲する。
*2同書に関する仲正昌樹氏の主張に関しては他にも色々と議論があって、「仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――五分でわかるまとめ・そのⅠ | しんかい37(山川賢一) | note」で既に批判されているのだが、「イギリス経験論」と言うところに特に引っかかったので。
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