第1章の内容で全体がどうこうと言う話ではないのだが、社会学者の稲葉振一郎氏の『社会学入門・中級編』の第1章にある計量経済学に関する説明はデタラメなので、他の社会学徒の皆様は騙されないように注意して欲しい。ネット界隈の印象に過ぎないが、社会学者の集団はサークルをつくって思い込みを共有しだすので、由々しき事態である。ミクロやマクロの計量分析をしている経済学者たちに草稿をチェックしてもらうなりすれば、ここまで露骨に変なことにはならなかったと思うのだが。
1. 構造推定への誤解
「実証社会科学への影響—計量経済学の場合」(pp.27–30)に「二〇世紀末」に「(「昔ふうの法則定立を目指しての構造推定」(p.43)とされる)理論モデルから得られた経済法則を表す方程式を、直接回帰分析にかけて検証する、といったやり方は社会経済データには通用しない、ということがわかってきた」(p.28)とあり*1、「大雑把に言えば「マクロレベルで普遍的法則性を探求する」方向から、「ミクロレベルで個別具体的な因果関係を分析する」方向へのシフトが世紀転換期の計量経済学においては見られた」(p.33)と宣言されているのだが、思い込みで妄想でしかない。
構造推定、廃れていないから。経済法則を表す方程式、つまり経済モデルのパラメーターを推定するアプローチは構造推定と呼ばれる*2のだが、伝説では1928年にミクロ経済分析から生まれて、ミクロやマクロを問わずに現在も発展し続けている。"Handbook of Econometrics"のchapter 64の"Structural Econometric Modeling: Rationales and Examples from Industrial Organization"で紹介されているミクロ経済学に分類される産業組織論の構造推定手法の開発年代を調べれば、1990年代以降のものが多くあることが分かるであろう。むしろ、1985年以降、ゲーム理論の静学/動学ゲームの推定が様々おこなわれている*3。マクロ経済学でも、稲葉氏もp.28で言及する「ミクロ的基礎づけ」のある経済モデルを構造推定する手法が開発され、むしろ活用が進んでいるとも言える*4。DSGEモデルのパラメータ推定、大学院であれば今は講義で説明しているのでは無いであろうか。なお、「法則の結果導き出される、よりローカルで個別的な関係」(p.29)と表現されている誘導形の計量分析は、マクロ経済分析でもされている。
マイナーなところでも妙な部分があって、「経済学者が回帰分析を使って行う、有意性検定を必須のものとして取り込んだ構造推定」(p.44)は、思わせぶりな修辞が限定をあらわすので無ければ、構造推定の目的や手法を狭く捉えてしまっている可能性がある。「「変数Aと変数Bの間には系統的な関係があるらしい」という仮説が得られた場合に、それを統計的に裏づける(その仮説が棄却できないかどうかチェックする)」(p.28)とあるのだが、カッコ内は「その仮説の対立仮説である帰無仮説が…」と書くべきであった。なお、別に検定だけが統計的な裏づけとなるものではない。対象読者は修士かそのすぐ下ぐらいと書いてあるので、この辺の常識的に分かる誤りは気づくとは思うが。
追記(2019/09/24 23:15):巻末の参照文献と読書案内を見る限り、構造推定の章があるテキストはパール(黒木訳)『統計的因果推論』だけだったのだが、稲葉振一郎氏の主張がここから来ていないか確認してみたが、構造推定が廃れたような話は書いていない。第5章で、構造パラメーターの(数学による)因果的理解が忘れ去られているが、近年、再考されていると言う話がされているのだが、これは実データに対する構造推定による分析が不可能であるという稲葉氏の主張とはまったく関係のない話である。
2. 統計的因果推論に関しておかしいところ
ここ30年ぐらいで個票データを用いたミクロの統計的因果推論の研究が増えてきたと言うのは間違い無いのだが、統計的因果推論についても無理解を感じさせる記述が多々ある。
研究の意義を理解していない。「(近年の社会科学を含めたフィールドサイエンスにおける因果推論)では、研究対象とする出来事の成り立ちを、その究極の原因たる普遍的法則性へと還元しようとはしません」(p.23)とあるのだが、その研究、その論文で普遍的法則に辿りつかなくても、研究を蓄積することで普遍的法則にたどり着つと信じられるからこそ学術的な意義があるわけなのだが、稲葉氏は何を根拠に主張しているのであろうか。
「因果推論の道具としての重回帰分析」(p.37–40)の節は、記述に誤りと言えるものがあるだけではなく、何を説明しようとしているのか把握するのが難しい。ランダム化比較実験(RCT)と対比される、自然実験を用いるわけではない重回帰分析による統計的因果推論と言えば、操作変数を用いたLATEのことになると思うが、説明がおかしい。「複数の独立変数同士の間での因果関係が入り込まないように(実際には相関関係を排除するように)、あるいはそれらの間の因果関係をも明示的に表現したモデルになるように変数を選択し、必要な場合には合成変数を作成したりもします」(p.39)と言うのは、二重におかしいことになっている。まず、多重共線性の問題を解消できるサンプルサイズがあれば、説明変数間の相関は問題にならない*5。次に、操作変数法は説明変数間の相関を制御するためのものではなく、逆の因果、つまり従属変数(被説明変数)が独立変数(説明変数)に影響を与えている効果を制御するために用いる。
自然実験に関する記述がおかしいし、途中で忘れ去られている。「実態面ではひとつながりの経済圏、生活圏を形成していながら、州境などにまたがっていて別々の制度のもとに分断されているような地域があれば、格好の「自然実験」の場として利用できます」(p.32)は、統計的因果推論のレポートであれば不可をつけざるをえない。ひとつながりの経済圏、生活圏を形成している地域AとBがもともとは似たような状態で、地域Aである政策が行われたとしよう。その政策に応じて、地域AとBの間で人々や事業所が移動する可能性が出てくるので政策効果、測れなくなる。p.40以降はRCTと質的調査の間にLATEが来るような説明になっており、マッチング手法についてはもちろん、自然実験を用いる回帰不連続デザイン(RDD)や差分の差分法(DID)の位置づけがされていない。RDDやDIDをRCTにカテゴライズしている気もするのだが、その分類であったら分類がおかしい。
p.31の二重盲検の説明が誤っている。稲葉氏の説明だと単盲検法にしかならない。二重盲検と言うのは、被験者だけではなく実施して被験者と接している人も、被験者が処置群なのか対照群なのか分からないようにする手法のことを指す。
「近年の因果推論のブームは…理論的には統計学、並びに統計的機械学習技術とともに再興した人工知能、また実証科学のレベルでは疫学、公衆衛生学を震源として、経済学などの政策科学へと波及したもの」(p.25)と書いてあるのだが、どうして理論的に人工知能が絡むと思ったのか。
3. 統計的因果推論が有用な理由
誤りではないのだが、全般的に統計的因果推論がなぜ有用なのかがよく整理されていない印象を受ける。統計的因果推論が政策効果の評価に用いられる理由として、従属変数が独立変数に影響を与えている内生性があると、説明変数と誤差項が独立とならないので重回帰分析は一致推定量を推定ができないことを強調すべきでは無いであろうか。需要と供給の構造をなどをあらわす同時方程式モデルが典型例だが、稲葉氏が例としてあげている学歴や職業訓練の所得に対する効果(p.35–37)、つまり割当メカニズム*6もまさにそのような事例になる。
十分な観測数のあるRCTは、未知の、もしくは観察できない潜在変数をコントロールすることができるわけだが、社会科学分野では操作変数になりうる潜在変数ランダムに処置群と対照群に無作為に割り当てることで内生性の制御ができることが重要なのであって、まったくの未知の変数の制御に重点はおかれておらず、統計的因果推論でも操作変数を用いるLATEや、各種マッチング手法(PSM, MDM, CEM)も広く用いられている。また、潜在変数の影響を除外したいだけであれば、完璧ではないにしろ、パネルデータで固定効果モデルを推定すると言う方法もある。
4. まとめ
以前、稲葉振一郎氏が「因果因果いうようになったの割合最近」と言うツイートをしていて、新刊は大丈夫かな…と思っていた*7のだが、「因果」が統計的因果推論を意味しているとも読めるのはよかったのだが、他の部分がダメだった。
計量経済学に関さない部分でも根拠不明の話はいくつもある。「内科や外科等の狭義の臨床医学では、意外なほど統計的方法の導入は遅れていた…インターネットによるデータ規模の巨大化(ビッグデータ)が確実にこのような状況を変え」(pp.25–26)とあるのだが、一般には根拠に基づく医療(EBM)の普及促進にそのような原理が働いたとは言われていない*8。自然(科学)の徒からの「意味理解・解釈も究極的には…自然のメカニズムの一環の理解に包摂・還元できる」と言う主張に、人文(科)学の徒は反駁して平行線になっていることを前提に議論が進んでいる部分がある(pp.9–13)のだが、近年もっとも知られた哲学者の一人ダニエル・デネットは唯物論者でここで言う自然(科学)の徒の主張に沿っている*9ので、ちょっと話がおかしい。「基本的な物理法則の多くは、時間に関して対称的」(p.16)と言ってしまってよいのであろうか。ニュートン力学や相対性理論はそうであろうが、熱力学や統計力学はそうでは無い気が*10。この辺、第1章の一部分を読むだけで済むので、ぜひ哲学徒や物理学徒に突っ込んで欲しい。
*1構造推定が廃れていないことを示すだけで稲葉振一郎氏の妄想を示すには十分だと思うが、稲葉氏が構造推定が社会経済データには通用しないことが分かった理由として挙げる「合理的期待形成革命によるマクロ経済学のミクロ的基礎づけ、あるいはゲーム理論の導入による不完全競争市場や組織・制度へのミクロ経済分析の導入、あるいは数理統計学の発展による、統計データ、とくに時系列データの奇妙な性質への理解の深まり、といった理論的洗練が、ある意味では理論と統計的実証研究との距離、隔たりを広げ」(p.28)たと言う話も、経済理論の発展にあわせた構造推定の進歩が示されることで崩れることに注意されたい。
*2関連記事:計量分析における構造形と誘導形の違い
*3吉村 (2015) 「静学離散ゲームの推定手法の近年の展開」経済論叢,Vol.188, pp.59–75
*4マクロ経済学者の宣伝的な面もあるのだが、「計算機の発達とデータの蓄積により、動学一般均衡の数値解析と構造推定の手法が、政策の厚生評価に現実的な貢献をなしうるようになりつつある」と言うような話の方がよく聞く。
*5書き間違えたのかなと思ったが、後にも「重回帰分析において取り上げられる複数の要因は、うまくお互いを独立に、相関しないものとして設定したうえで」(p.40)とあるので、誤解している蓋然性が高い。
*6読書案内にあげられている『実証分析入門 データから「因果関係」を読み解く作法』の因果効果の推定の章に説明がある(関連記事:ミクロ計量分析の常識が身につく『実証分析入門 データから「因果関係」を読み解く作法』)。
*7関連記事:稲葉振一郎「因果因果いうようになったの割合最近」に引っかかった点と、リプライで指摘し損なったこと
*8Sur and Dahm (2010) "History of evidence-based medicine," journal of the Urological Society of India, 27(4), pp.487–489
*9関連記事:人工知能好き、SF好きは読むしかない「心の進化を解明する」
*10エントロピー増大の法則と言うアレである(関連記事:∂が出てくる高校数学で熱力学と統計力学を紹介する『高校数学でわかるボルツマンの原理』)。
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