かなり前からなのだが東北学院大学のジェンダー社会学者・小宮友根氏が居酒屋でサラダを取り分けるのが女性であることを問題視している。先日も、同じ趣旨の記事*1を書いていた。
曰く、サラダの取り分けが他人の世話と言う仕事、他人を補助する身分が下の人が実行する仕事の代表例であり、これを女性の担当とする習慣を容認することがジェンダー・ステレオタイプを人々に受け付けることになり、男女の性別役割分担に歪みが生じるそうだ。軽微なことが社会を構築していると言う思想。社会構築主義。ひとたび社会構築されると、人々はそれを前提にした人物評価や、それに対応した技能習得を行うので、自由に振る舞うようにいっても変化は生じない。
サラダを取り分けが大事になってしまっているのだが、もちろんそんな事を示す実証的な根拠は無い。ランダム化比較実験で、女性のサラダを取り分けを禁止した地域の男性の家事参加率が上昇し、女性の管理職が増えるようなことがあれば興味深いのだが、そんな研究は試みられていない。そもそもサラダの取り分け、女性がすることになっているのかすら良く分からない。ジェンダー社会学者の思い込みと言うことになる。
この壮大な妄想ともいえるジェンダー論者の説には、原典がある。ジュディス・バトラー。理路整然とした文章を書かないポストモダン系思想家なのだが、以下のインタビューの説明はその道の専門家でなくても理解できるであろう。そして、理解した上でそれにどんな意味があるのか首を傾げることであろう*2。
社会学は常識を疑う学問だと豪語している社会学者をよく見かける気がするのだが、先人の主張を批判的に吟味・検討する姿勢に欠け過ぎではないであろうか*3。なお、真に受けているといっても言説の中だけで、本気にしているかは分からない。ジュディス・バトラーの議論では、女性のスカートや化粧もやめた方がよいことになる。ジェンダー論者の服装などがどうなっているか、機会がある人は観察されたい。
*1私がゼミ飲み会で「女子のサラダ取り分け」を禁止することがある理由(小宮 友根) | 現代新書 | 講談社(1/4)
*2ジェンダー論を学ばないからそう思うような批判がジェンダー社会学者からされそうだが、フェミニズムに詳しい倫理学者のヌスバウムもこのようにジュディス・バトラーを批判している(The Professor of Parody by Martha Nussbaum)。
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