2018年5月28日月曜日

教養を語る前に必要なメタ教養学

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「地位はあるけど教養がない」人たちの末路』と言うエッセイが話題になっていた。論理の飛躍が大きく読みづらい文章なのだが、曰く、(1)哲学を知ることで、批判的思考によって現状を把握し、状況の変化に適応するための提案する事ができるのだが、(2)教養が無い人は哲学を知らないので、社会的地位がある場合は脅威になるそうだ。

哲学が大事と言いつつ、語義が謎のポストモダン論法になっている。教養とは哲学のことであり、哲学とは弁証法のことを指すことになっているが、これは社会通念と合致しない。教養を定義する議論が必要になるが、そういうものは無い。他にも、最初のページで脅威は文明にとってのものであったが、最後のページでは会社存続のためのに摩り替わっている。著者には論理トレーニング本を頑張って欲しい。

1. 語義が曖昧な教養

そもそも教養は、言葉としては広く通じるが、実際の定義が曖昧な単語の代表例である。辞書の定義を参照すると、全ての体系的な知識が含まれる事になり、教養の必要性、教養の不足の議論では役に立たない。ほとんどの人は何かは体系的な知識を持つ一方、全ての体系的な知識は持てないからだ。歴史的に教養とされて来た知識を見ると、上流階級もしくは特権階級が共有する知識の事を漠然と指しているが、これをそのまま定義とすると循環論法に陥る。上流/特権階級が、なぜその知識を共有しないといけないか別に説明がいる。リベラル・アーツと限定される事もあるが、これも三学四科と言うよりは大学の一般教養科目を指しており、なぜ大学の一般教養科目にそれがあるのか別途、説明が要ることになる。

2. 教養を定義するのは困難

教養の必要性を議論する前に、教養とは何なのかを定義するメタ教養学が必要だ。教養を定義し、有用を定義し、それらの定義から教養の有用性や必要性を論証する必要がある。客観的に定義できるものなのか、主観的にしかありえないものなのか、その実存性から考えないといけない。簡単そうに思えるかも知れないが、論理的に性質が良く、直観に沿ったものを得るのは難しいであろう。すぐ何かおかしい事になる。

例えば、ある社会に属する人々が持つ共有知のように定義してしまおう。すると、義務教育で教わる勉強や大衆文化こそが教養になる上に、定義から無教養な一般大衆などほとんどいないことになる。ネット界隈で参照される文学作品で人気なのは、国語の教科書に載っている「走れメロス」であるのは自明の事実だが、この作品の内容を知らない人はほとんどいない。教養が有用であっても、その不足を憂う必要はない。さらに、何かが教養だと認識されて義務教育の内容になることで、それが教養としての要件を満たすことになり、(読み書き算数のように、生産や生活に直ちに有用かつ代替不能である知識を除く)教養は協同幻想、つまり非実在になる。実在しないものの有用性は、議論に値するであろうか。直観にも反する事になる。シェイクスピアの作品群よりも「ジョジョの奇妙な冒険」の方が教養として相応しい事にもなるのだが、同意できるであろうか。

3. そもそも教養を定義する必要が無い

メタ教養学を真面目に考え出すと、相応の困難がある。そして、やる気を失う大きな現実がある。何となく教養と分類されている古典文学など個別具体的なものの有用性を議論すれば事足りる上に、そちらの方が実証的な研究可能性が高いのだ。古典文学の有用性を議論するのであれば、(卒業した大学の専門やランクや知能指数などを揃えた)被験者に古典文学のテストを受けさせて点数をつけて、被験者の社会的地位や生活満足度などとの相関を取るなどすれば良い。反知性主義と非難されそうだが、小難しい議論に触れない方が良いことは多いのだ。

4. 詭弁に使うには便利な単語

もちろん、自身の専門分野を個別具体的に検証されると困る研究者や教育サービス従事者が、教養と言うオバケ用語で素人を煙に巻くと言う意味で、教養を語ると言う有用性はある。通りが良いが、誰もが明確な定義を知らない、詭弁には便利な単語。実際、話題の記事の著者もそういうサービスに従事しているようだ。

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