2015年8月19日水曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(19)

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載『リスク・責任・決定、そして自由!』は、今まで実証的な議論が展開されて来た。近年の日本では流動的人間関係の社会システムが指向される一方で、固定的人間関係に適応した倫理を強化しようとしてきたが、これが悪い結果をもたらすと主張している。この連載における倫理は実践される社会ルールであって、実証的なモノだと言うことが分かる。ロールズの議論も『「自分の身にも将来降り掛かってきかねない」というリアリティ』が失われて力を失ったと、実証的に退けている。

物事の良し悪しを判断する規範については、明確ではない。連載で表明されている規範的な厚生基準は「自由」なのだが、非パレート最適状態が自由の抑圧と主張されていて、もはや一般の自由の概念とかけ離れた議論が展開されている*1。「疎外」も問題にされて来たと紹介されているが、協調による厚生改善の失敗を引き起こすから問題のようなので、「疎外」自体は厚生基準足りえない。連載としては、この松尾氏の規範を明らかにした方が論理が明確になるが、それは回避されてきた。

1. 統整的理念と構成的理念が衝突したらどうするか?

こういう状態で連載が続いて来たのに、『「獲得による普遍化」という解決──センのアプローチをどう読むか』で厚生経済学者のアマルティア・センを持ってきた。規範的な議論を展開するのかなと思うわけだが、カント流に統整的理念としてロールズの正義を掲げつつ、構成的理念に沿った現実解を模索すべきと言う話になっている。つまり、規範の表明の回避を正当化しようとしている。

さらっと読むともっともらしいのだが、規範的な議論としては論理的に脆弱だ。統整的理念と構成的理念が衝突したときに、どちらを優先すべきと言うのであろうか。二つの理念を無矛盾に設定すべきとも言えるが、すると二つを分ける必要がない。実現可能な実践的倫理の中で、規範的にもっともマシなものを構成的理念として選択するとして、厚生の元になる統整的理念の重要性は変わらない。

2. 自然権的リバタリアンは帰結を気にしない

最後にセンに関する文献*2を確認していて、連載全体に大きな問題がありそうな気がしてきた*3ので、述べておきたい。松尾氏の議論では、リバタリアンはそれがもたらす帰結*4から消極的自由を主張しているように思えるのだが、センの議論ではリバタリアンは自由の「固有の価値」を重視しており帰結については評価しない事になっているそうだ。(帰結主義的)左派リバタリアンだけ問題にしていて、(自然権的)右派は知らないと言う議論かも知れないが、藁人形を叩いているかも知れない。

無自覚だと思うのだが、松尾氏は素朴な帰結主義者なのでは無いであろうか。自由の固有の価値を無視していると同時に、人権などの権利についてもほぼ言及されていない。人身御供、身分制度、奴隷制度に言及しているのにも関わらずだ。自己決定権を失う疎外についても、それ自体が問題だとは議論していない。そして分配による帰結には、配慮もしくは理解が見られる。

追記(2015/08/19 08:54):最終回の『新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰』のリバタリアンに関する言及を拝読していて、やはり素朴な帰結主義者としか思えないので指摘したい。

例えば多くのリバタリアンは、「自殺は自由だ」と言うと思いますが、リバタリアンにとっては一旦「自由」と認定したものは、それを妨げる行為は自由の侵害で「悪」ということになるはずです。そうだとすると、自殺を実力で止める行為は「悪」ということになってしまいます。しかし、普通は自殺を実力で止める行為は、見殺しにするよりは、善行として奨励されることに異存ないと思います。どんなリバタリアンの理想社会でも、自殺を止められた人が止めた人に賠償を求めて訴えても、認めないのが適当でしょう。

まず、「普通は・・・と思います」の部分は直観主義に基づくもので、リバタリアニズムに基づかないから意味が無い。次に、典型的なリバタリアニズムの議論では自分の身体を所有しているので、自分の身体を思い通りに処分しても道徳的に許されると考える。ゆえに他の個人はある人の自殺行動に干渉しない義務をもっているので、自殺を止めることは不道徳になる。金銭換算が可能ならば、損害賠償も認められるであろう。

麻薬や覚醒剤のような薬物についても、種類のいかんで程度問題と思いますが、一回経験してしまったら、それを摂取しない選択をもうできなくなってしまう。だから自由を認めないという理屈が成り立つと思います。

これはパターナリズムな帰結主義に基づく議論で、リバタリアニズムに基づかないから意味が無い。薬物を試みる自由と薬物中毒と言う帰結を両天秤にかけると、自由を帰結に優先するのがリバタリアニズム。帰結から判断しては、リバタリアニズムにならない。

児童売春や児童ポルノについては、たとえ当人の合意があっても、多くのリバタリアンも認めないと思いますが、そのときよく聞かれる理屈は、「子どもは理性的に判断できないから」ということです。しかしそれを言い出すと、子どもの自己決定が原理的に否定されてしまいます。私は、子どもの心に回復不可能な傷をつけて、それがない状態を選べなくなるからという理屈で、禁止されるべきだと思います。

「子どもは理性的に判断できないから」とすると「子どもの自己決定が原理的に否定されてしまいます」とあるが、子供の自己決定を否定するための理屈だから問題ない。なお理屈のつけ方は色々とある模様。

「相手が骨折するなど重傷を負うまで続けるデスマッチ」のプロレス試合が、当人の合意があるなら認められるのかと言えば、さすがにリバタリアンの多くも認めないのではないでしょうか。

デスマッチが認められないと言うのは直観主義に基づくもので、リバタリアニズムに基づかないから意味が無い。自分の身体を思い通りに処分しても道徳的に許されるのだから、問題は無いはずだ。

なお、物品と異なり身体の所有権は自らに無いと言うリバタリアンもいるらしく、この場合は自殺などは禁じられる。つまり権利の行使が自由なだけで、自然権がどのようなものかは、別の議論が必要になる。

5 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

拙論は終始、帰結主義ですよ。
人権や「自由の価値」も、個人の厚生から帰結主義的に正当化される必要があるという立場です。
スミス、ミル、ハイエク等の自由主義の流れは、帰結主義だと理解しています。

追記の部分の論理も、よく聞かれる素朴な直観主義に基づく議論は、「このように考えると帰結主義で正当化できますよ」という理屈です。私自身がそこに書いてある直観主義を根拠にしているわけではありません。
個人の厚生というときの個人を、究極には理性的判断以前の感性的(生物学的)個人においているので、その厚生の最適化のためには試行錯誤の自由がなければならないという理屈で自由を正当化しています。だから試行錯誤のための選択肢がなくなるような選択は制限されることが正当化されるという理屈です。

1.は、ちょっと誤読があって、私は「構成的理念」はやめようと言っているわけです。やめようと言ってもやめられないかもしれませんけど、なるべく、あまり「理念」などとは言えないようなレベルの、いつでも「方便」として使って取り替えられるようなものにとどめようということです。

拙論では、見通せる将来での実現を求めない「統整的理念」自体、帰結主義的に出しているわけです。乱暴に単純化していわば「全人類パレート改善」ですけど。
誰も他人の選好(自分の選好も)を正確に知らないし、世に存在する技術も知らない、ゲームの構造を知らないのだから、自分も誰もそれをわかっていないことをわかった上で、「きっとそんな解があるだろう」と思うことが重要と。
王侯も私財を納得ずくで大半投げ出して弱者の厚生を上げれば、自ら大いに満足するというレベルでの「パレート改善」なので(笑)、実現できるはずないのですが、実現できないからこそ、帰結主義なんだけど規範として役立つのだと思います。

まあ、パレート原理を持ち出すこと自体、すべての感性的個人の、還元不可能性という意味での対等を前提しているので、そこに一種の自然権的発想があるとは言えると思いますが。

uncorrelated さんのコメント...

>> 松尾匡 さん
> 人権や「自由の価値」も、個人の厚生から帰結主義的に正当化される必要があるという立場です。

自然権的リバタリアンの方をどうケアするのかと言う問題が残りますね。

> 厚生の最適化のためには試行錯誤の自由がなければならないという理屈で自由を正当化しています

「機会としての側面」を強調する、自由に手段としての価値を求める立場ですね。
「過程としての側面」を強調する、自由に固有の価値を求める自然権的リバタリアンを、無視してしまってよいのかが問題になります。

> 私は「構成的理念」はやめようと言っているわけです。

そうなれば、統整的理念とされたロールズの正義を規範としておいて、規範的には問題なさそうです。

> 王侯も私財を納得ずくで大半投げ出して弱者の厚生を上げれば、自ら大いに満足するというレベルでの「パレート改善」なので(笑)

この一文では他者や自分の選好を観察可能になっているので、功利主義を導入する方がずっと正当化しやすいと思いますが、連載を通じて功利主義に言及が無いのが気になるところです。

なお社会厚生関数を最大化する点は、他の点よりもパレート改善になっている必要はないです。功利主義者になれば、王侯が納得しようがしまいが、分配するのが良い社会状態だと主張できます。

厚生経済学的には空虚な議論になりますが、容易に辻褄をあわせる事ができます。

松尾匡 さんのコメント...

予想される将来に実現を目指さない「統整的理念」と違って、現実の公共決定が、何らかの民主的手続きによる個人の厚生判断の集計によって、背後に何らかの意味で功利主義的な社会的厚生関数をこしらえることで決めるほかないことは承知します。

 しかし、やっぱりそこは、「全人類パレート改善」を頭の隅に置いた上で、犠牲者へのやましさを、少なくとも公的建前としては持っておくことが、重要なのではないかと思います。たとえ独裁者を倒してどれだけ喝采しても。
 (選好自体が再発見されていくことも含め)いつかはもっといいやり方ができるようになると、一応はみなしておくことが大事かと。

 例えば人権原理は、ざっくり言って、社会的厚生関数形成にあたって全員に大きな苦痛への拒否権を与えることで、「全人類パレート基準」に近づける工夫だとみなせるように思います。

uncorrelated さんのコメント...

>> 松尾匡 さん
> 「全人類パレート改善」を頭の隅に置いた上で、犠牲者へのやましさを、少なくとも公的建前としては持っておくことが、重要なのではないかと思います。

パレート効率な状態は複数存在するわけで、パレート効率な点同士を比較できない社会的厚生関数は使い勝手が悪いです。分配のために取られるモノが多い金持ちに不満を抱くなと言うのは無理があります。薬物などで洗脳すれば不満を抱かないかも知れませんが、これは倫理学の方でダメだろうと言う議論が既にあったはずです。


> 予想される将来に実現を目指さない「統整的理念」と違って、現実の公共決定が、何らかの民主的手続きによる個人の厚生判断の集計によって、背後に何らかの意味で功利主義的な社会的厚生関数をこしらえることで決めるほかない

社会的厚生関数は世の中の状態を比較するためのモノであって、ある理想を示すモノでもありません。実現可能な政策の中で、もっともマシなものを選び出すための物差しです。

ロールズの正義論は理想を示しているわけですが、ロールズ型社会構成関数はそんな事は無いわけで、理想への距離を示すモノだと考えればよいと思います。

民主的な手続きにも拘らない方が良いかも知れません。センのリベラル・パラドックスで、最低限の自由を許す社会的厚生関数は存在しない事が知られています。

理論研究としては面白くは無いのですが、応用的には“倫理的に正しい人間像”を描いてしまうのが楽です。

- 人々の効用は足せる。社会の効用の総和を増やすのが正しい。
- 最近の幸福度研究から消費から得られる効用は急激に逓減する。
- 殺人や妬みは効用を左右するモノとして認めない。(←生活保護などを妬むな!と言う話)

これらを認めるだけで、社会保障の正当化なんてずっと楽になります。自由の重要性は落ちますが、御主張の試行錯誤のためや、生産インセンティブの維持など、手段としての価値は残るでしょう。

当然、自然権的リバタリアンとは絶対に分かり合えませんが、そこは喧嘩上等になります。

※ なお倫理学方面からカントの統整的理念ってそんな話だっけ?と言われているので、連絡しておきます。

松尾匡 さんのコメント...

> 薬物などで洗脳すれば不満を抱かないかも知れませんが、

薬物というよりは、やがていつかは、万人がわかりあえるような自己の選好に、各自気づく日が来るという、抽象的な信仰みたいなものです。「統整的理念」は社会的厚生関数ではないのです。

私も、上で社会的厚生関数と言ったのは、世の中の状態を比較するための物差しレベルのことを指していて、「全人類パレート改善」の件はそれとは別に別途、もう一段メタな次元での「統整的理念」の話です。

> ※ なお倫理学方面からカントの統整的理念ってそんな話だっけ?と言われているので、連絡しておきます。

ああそうでしたか、ありがとうございます。
本文にも書きましたように、あれは柄谷行人さんの説明なのですが、時間もないので直接カントでは確認できず、とりあえず柄谷のカント解釈として紹介したものです。
本の出版までには確認しておきます。

私も応用レベルのモデルでは利得の総計の最大化をよく使ったりします。補償原理込みでパレート改善できるし。(前にいっぺんここで「効率性」という言葉をめぐってこの話になったような気がしますが。)
もっと原理的レベルの議論では、これに満足せずにいろいろ考えなければならないと思っているだけで...。

他人の効用なり配分なりを効用関数の変数に(減少関数で)入れないというのも、普通にしますし。(そうでないと困ったことがいっぱいおこるはず。)
「商人道」話にあったように、たしかにこれは“倫理的に正しい人間像”を描いているとは言える気はします。

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