2022年8月4日木曜日

古典的リベラリズムから見て、フェミニスト清水晶子のプレゼン「学問の自由とキャンセル・カルチャー」は全くダメ

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東京大学の清水晶子氏がシンポジウム「フェミ科研と学問の自由」で行なったプレゼン「学問の自由とキャンセル・カルチャー」がキャンセルカルチャーを正当化していると主張されていた*1。シンポジウムの動画が公開されていたので該当部分を拝見したのだが、確かに正当化している。

清水氏曰く、ポリティカルコレクトネスやキャンセルカルチャーへの批判は、差別や抑圧への対抗言説を封殺するために行なわれている学問の自由の悪用で、差別や抑圧になる言説は学問の場で教えるべきではなく、自由に議論させてはならないと主張している*2。キャンセルカルチャーの擁護と解釈せざるをえない。

清水氏の議論は、古典的リベラリズムからの言論の自由*3の観点から見ると問題が多い。

  1. ポリティカルコレクトネスに反するとされた主張が「学問的に反駁否定されている」差別や抑圧になる言説だと無検証に前提が置かれているが、そうとは限らない。理工分野の定説であれば実験や観察によって証拠が積み上げられているが、ポリティカルコレクトネスの論拠はそういうモノでもない。歴史学や心理学の知見が前提の議論もあるが、これらの分野の通説はここ数十年で大きく変わっている*4
  2. 本当にポリティカルコレクトネスの論拠が磐石なものであれば、それと合致しない言説が唱えられることを恐れる必要は無い*5。差別や抑圧になる言説が唱えられることでポリティカルコレクトネスが失われることを恐れているようだが、論拠が磐石であれば対抗言説が優位になることはない。むしろ議論を交わすことにより、ポリティカルコレクトネスの論拠を再確認し、それへの支持を増やすことができる。

差別や抑圧になる言説を唱えている学者を、専門家コミュニティーから村八分にするキャンセルカルチャー*6を用いる必要はなく、言説を個別に批判していけば十分だし、むしろ望ましいと言う事だ。学問的な批判を加えるのではなく、社会的圧力を用いて主張者をキャンセルしようとするから、「理性ではなく威嚇」と批判されることになる。

ところで最後の方の質疑応答(2:43:00~)で、歴史学者の呉座勇一の裁判の件はキャンセルカルチャーになるのか聞かれて、清水晶子氏は「呉座さんの裁判は、労働争議だと思っている」と返事をしていたのだが、清水氏が差出人に名を連ねたオープンレターの件に関して、呉座氏と清水氏は現在係争中のはずである。

*1清水晶子先生のキャンセルカルチャー擁護の講演 - Togetter

*2清水晶子氏のプレゼンは、基本的に欧米の議論を紹介しているわけだが、「自由の濫用をサバイブするために、アーメントが提唱した戦略を引用して私の報告を終わりにしたいと思います。」と言っていたので、引用されたSara Ahmedの主張を支持していると解釈した。なお、清水晶子氏が紹介していたサラ・アーメッドの主張は、「(トランス排除派も含めて)フェミニストの発言は自由になされるべき」と言う意見を否定している(関連記事:サラ・アーメッドの主張における「特定の討議や対話を拒絶」の意味)。

*3J.S.ミル『自由論』の第2章を参照せよ。

*4歴史学の場合はマルクス史観からの脱却、心理学の場合は心理学再現性クライシスの余波がある。よく論争になるトランスジェンダー問題でも、精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)の記述は頻繁に変わってきたし、最近はトランス女性の女子競技参加基準の厳密化などが科学的見地から行なわれた。

*5研究ではなく教育においては、授業時間の都合から「学問的に反駁否定されている」主張を割愛することに合理性は認められる。ただし、講義内容が気に入らないからと言って、学外から担当教員の更迭を社会圧を用いて求めるようなことはするべきではない。

*6清水氏のCambrige DictionaryとMerriam-Websterの引用を用いたキャンセルカルチャーの説明では、専門家コミュニティーからの追放と言う意味が明確に分からないようになっている。Oxford Learners DictionaryやWikipediaではかなり明快に書いてあるのだが。なお、清水氏はどうも、ビュー・リサーチセンターのアンケートからキャンセルカルチャーがどういう目的で行なわれる運動なのかと言うのを、キャンセルカルチャーが何かと言う定義に捉えなおして、以後、キャンセルカルチャーが検閲行為ととれるような説明をしている。

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