2022年5月8日日曜日

人文系ポモが陥りそうな議論になっていた『ホモ・エコノミクス — 「利己的人間」の思想史』

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先月、感想を求められた社会思想史家の重田園江氏の『ホモ・エコノミクス — 「利己的人間」の思想史』を拝読したのだが、テーマは面白そうなのだが、議論の整理整頓が不十分で、経済学などへの理解が足りていない感じの議論になっていて、残念な感じになっていた。色々と改善して欲しい点があるので、指摘したい。

経済学徒でないと題名のホモ・エコノミクスが何だか分からないかも知れないが、一般的には、最小の労力で最大の財・サービスなどの利益を得ようとする利己的な人間を抽象化した概念を指す*1。本書では「自分の経済的・金銭的な利益や利得を第一に考えて行動する人」(p.16)で、「自分の好みを熟知していて」「完全に合理的*2で計算を間違えない」と説明されている。また、記述の端々からは、計算高い強欲として捉えているのが分かる。

1. 書かれた情報で否定される主要な主張

本書はこのホモ・エコノミクスと言う概念とその蔓延を批判した本で、切り口自体は興味深い。(1)近代になって経済学の濫用でホモ・エコノミクスが規範的な人間像と考えられるようになり*3、(2)ホモ・エコノミクスにあわせて社会制度が作られ*4、(3)社会制度が人々にホモ・エコノミクスとして振舞うことを強制し*5、(4)世の中が悪くなっている*6と言うのが著者の主張だ。こう書くと説得力がありそうだが、本書が提示している情報が、本書の主要な主張を崩してしまっている。

第一部で展開される名立たる思想家の議論を参照しつつ、近代までに社会規範が変化したとする主張には異論はないのだが*7、それまで人々はホモ・エコノミクスからほど遠い価値観を持っていたので、自然状態の人間はホモ・エコノミクスでは無いと言う主張には説得力がない。「歴史をひもとくならば近代社会以外にホモ・エコノミクスを見出すことは難しい」(p.284)とまとめてあるが、「(古代の思想家)アウグスティヌスはローマ滅亡の原因を奢侈による腐敗に求めている」(p.57)と書いてあるので見出せる。また、キリスト教が強欲を禁じている(p.23)と言う事は、強欲なホモ・エコノミクスが古来よりいたと言うことだ。

ホモ・エコノミクスが規範的な人間像になる前から、人々がホモ・エコノミクスであったと言う事は、社会制度が人々をホモ・エコノミクスにしてしまっていると言う主張がおかしい事になる。「ホモ・エコノミクスはとても抽象的で現実離れした人間像」(p.134)と言う主張が繰り返しされているが、これが崩れる。完全にでは無いにしろ、ホモ・エコノミクス的な振る舞いの人々はいたのだから。「人間とはいったいどんな存在なのだろう」と言う問いは「過去にたずねるべき事柄」(p.290)とあるのだが、そう言っている著者が過去に尋ねることを怠った。

2. 目にしている経済学の発展の拒絶

本文中の各所で、現在の経済学が限定合理性や情報の非対称性、利他的効用関数などを導入することで、古典的なホモ・エコノミクスを一般に前提としていないことに言及されるのだが、「ホモ・エコノミクスはしぶとく生き残っている」(pp.282–283)と根拠を示さず断言し*8、「人間の合理性や情報の完全性などの」「理論において前提とされる人間像が適切なものか」といった問題意識が見失われた(pp.203–204)と主張する。しかし、問題意識がなければ、古典的なホモ・エコノミクスと言う前提を崩したモデルは構築されない。本書ではゲーリー・ベッカーがホモ・エコノミクスを参照点に差別の程度を計測した研究に言及があり(pp.209–214)、それは古典的なホモ・エコノミクスは厳密な人間像ではない事を示す経済学の研究で、本書でもそのように説明しているのだが。著者は既に得ている経済学の知識を、自分の議論に反映するのを拒絶している。

3. 無視されている計量分析と実験経済学

著者が気付いていないだけな気がするが、無視されている経済学の知見がある。経済学では膨大な計量分析が行われているのだが、そこではホモ・エコノミクスと言う仮定が世の中をそこそこ説明することが示されている。ホモ・エコノミクスな効用関数を前提においた需要関数は、世の中を完全にではないにしろ説明できる。また、バーノン・スミスは、市場取引を模した実験(double oral auction)を繰り返すと、実験結果の価格と取引量が、競争均衡を仮定した理論値に、実験参加者同士が相談することなく近づいていく事を発見した。これも、ホモ・エコノミクスと言う仮定が概ね正当であることを示している。選挙の投票先や慈善行為など上手く説明できないことも多いわけだが、市場取引を説明するモデルの理想化の方向としては悪くない。なお、市場化すると人々はホモ・エコノミクスになってしまうんやと言う議論があって*9、これは著者の問題意識に近いかも知れない。

4. 同じホモ・エコノミクスでも社会厚生は政策で変わる

経済学の理論には、人々はこのように振舞いますよと言う事実解明的分析(positive analysis)と、人々にとって望ましい状態はこちらですよと言う規範的分析(normative analysis)の2種類があるのだが、厚生経済学、社会厚生関数に関する言及がある(p.262)のに、規範的分析の議論に配慮できていない。

ワルラスさんはワルラス均衡は公平と正義に適うと思っていたらしい(p.180)ので騙されたのかもだが、(経済学を含むであろう)ホモ・エコノミクスを前提にした思想では「人間は自己の利益を最大化しようとするので、市場こそ最も優れた資源配分のあり方だ」(p.289)と言うような規範があるとしている。しかし、学部のミクロ経済学の教科書の範囲でも、おかしい議論になっている。

ミクロ経済学のエッジワースボックスの話を思い出せば、均衡がパレート効率的になるだけであって、それが最も優れた資源配分とは言えないことに気付く。初期財配分をかえたら均衡は変化するが、すべてパレート効率的な契約曲線上に位置する。功利主義などの倫理的立場をとって衡平に配慮すれば、契約曲線上のすべてではなくその中の一点が最も優れた資源配分になる。事前の公平性、事後的な衡平に関する研究紹介になっている、やさしいが手堅い邦書があるので参照して欲しい*10

市場であれば何でもよいと言うわけでもない。最近は、社会厚生に配慮して市場や制度を考えるメカニズムデザインも広く知られている*11。事実解明的分析を元にして、規範的に望ましい政策や制度を考えるのが現在の経済学と言ってもよい。

5. 記述がおかしいところ、謎なところ

経済学、物理学、統計学に関して記述がおかしい(気がする)ところが多々あるので、学部生には勧められない。

  1. 「参加者の選好の一定の組み合わせではパレート最適となる解がないことを証明した」(p.271)のがアローの不可能性定理と言うのは誤りである。パレート原理(≠最適)、社会的選好順序の完備性・推移性、情報的効率性(IIA)、非独裁制の4つの条件を同時に満たす投票ルールが無いことが証明された。なお、パレート原理を満たさない投票ルールは、全会一致でAが支持されたのに、Bが選ばれる謎世界なので、「そもそもパレート最適が最善の政治的決定なのかどうかはとても怪しい」(p.272)と言うのはどうかと思う。
  2. 「たえずつづく運動を一瞬の静止=均衡として捉え、自然の切れ目ない流れを期ごとの産出量へと抽象化するこうした発想を取ってきたために、経済学の収支計算は長いスパンでの物事の推移を取り扱うことに長けていない」(p.243)とあるのだが、連続時間のモデルもあるし、離散時間モデルと結果はそうは変わらない。
  3. 商品が無限に分割できるのは非現実的と言う話(p.156)なのだが、科学哲学方面の、厳密には間違っているがその方が応用が利くと言う理想化(idealization)と言う概念で考えて欲しい。
  4. 「近代科学においては、不可逆の時間や具体性を帯びた空間を理論に組み込むことは難しい」(p.243)と言うのは、流体シミュレーションを想像すれば明らかに誤りだ。
  5. 価格や費用に反映されない外部不経済があることと、分析で外部不経済を考慮しないことの見分けがついてない(p.193)。
  6. 交換はプラスサムゲームではないと言う話がされているのだが(p.194)、経済学では、プラスが無ければ市場参加者が離脱するので、市場参加者が合理的な限りは、市場参加者の間ではプラスサムゲームとしか言っていない。参加していない将来世代にとってプラスになる経済活動かは別と言うのは、経済学者もよく指摘しているはず。
  7. 「市場での取引を典型的な経済現象と見なすことも自明ではなかった」「市場を中心に経済活動を捉えるということ自体が、一つの立場選択」(p.200)とあるのだが、財市場、労働市場、資本市場の取引に関わらない生産や消費として何があげられるのかが謎である。
  8. 「生命の循環や自然環境の全体を、「交換可能な財」という孤立し数値化された単位へと縮減してしまうこと」(p.197)が批判されているのだが、排他的な「交換可能な財」として考えて意思決定を行わないから過剰利用などが起きるのでは無いであろうか。共有地の悲劇と言うか。
  9. 都市と農村の貧富みたいなモデルはあって、土地の劣化も、人口増加率も入れるのは可能なので、時間や空間の取り扱いの限界で考察できないと言うようなpp.242–244の議論は理解できない。
  10. 資本集約的な農業の社会構造に対する影響で、没落農家が出て困ったことを予見できなかった云々は、ホモ・エコノミクスと言う前提は関係が無い。むしろ、援助国が途上国から(ある意味)収奪していると言うのは、援助国の人々もホモ・エコノミクスであることを見落としていた的な話になる。
  11. シュルツさんが音頭をとった緑の革命が、近視眼的な最適化行動による政策で、農地の生産性が落ちる問題が生じたのは、経済学のモデルの時間の取り扱いがよくないせいだと批判されている(pp.242–244)のだが、土壌の劣化の評価が抜けていただけであろう。なお、同様の問題は昔からあり、19世紀の経済学者のマーシャルさんが著作で土壌の状態も資産として評価することで解決できることを示している。
  12. 「サイコロを大量回投げたときに出る目の分布(正規分布)」(p.202)は語弊があると言うか、出る目の分布は離散一様分布で、出た目の和の分布も試行回数につれて正規分布に中心極限定理で分布収束するけれども厳密には正規分布ではない。
  13. 限界効用逓減法則の数学による表現についての議論が厚いが、一意な均衡の存在を示すための凸性が保証されるので数理経済学的には重要である一方、ホモ・エコノミクスと言う前提の是非にはあまり関係が無い。
  14. 「ジェヴォンズやワルラスは、限界効用逓減という前提を置いた場合に市場で需給が均衡する過程を、てこがバランスする際の均衡過程と似たものとして比喩的に理解した」(p.202)は、「が均衡する過程」ではなく「の均衡」にしないと誤りだし、ワルラスモデルは比喩ではなくて独立したモデルなので、てこの原理の比喩的に理解したというのは物凄く語弊がある。説明が類比になっているだけで、物理学ではなくて数学を使って考えているので。
  15. p.157のビールの例、限界効用が逓増していて、逓減していない。当てはまらない場合があると書いて欲しかった。
  16. p.159の一物一価の法則の市場参加者の価格への影響力に関係あるような説明が謎。
  17. 19世紀の物理数学というか「仮想速度の原理」ぐらいは白旗(p.184)をあげずについていって欲しい。仮想仕事の原理の昔風の表現で、どちらにも動かないが全力でやっている綱引きのような話だから、「ここで…説明することはとてもできない」と諦めるほどでは無いはず。
  18. ワルラスさんの一般均衡理論とニュートン力学の多体問題との類比を「分かったような分からないような話」(p.182)としているが、ワルラスさんはn財モデルにも解があると言いたかっただけだと思う。証明ができれば良かったのだろうが、それに必要なブラウワーの不動点定理の証明が1904年で、ワルラスさんの『純粋経済学要論』は上巻1874年・下巻1877年だから、ちょっと証明は無理だったと言うか、証明ができるようだったらエコール・ポリテクニークに入学できて、経済学に貢献していなかったかも知れない。
  19. 「逓減のあり方は曲線的だと仮定」(p.156)は文字通り読むと三階条件の話になってしまうのだが、その後の説明は二階条件が負であることの議論になっている。
  20. 「てこの均衡点は、てこにおけるエネルギー極大化点として解析的に理解され」(p.161)「てこの原理(てこのエネルギー極大化原理)」(p.163)「静力学において、てこがバランスしている点がエネルギー極大化点であるのと同様」(p.180)とあるが、モーメントの和がゼロであれば釣り合うので、何の極大化をしているのかが分からない。「これは物理学におけるエネルギー極大化点との類比である」(p.194)も謎。最小作用の原理あたりを考えると、極小化ではないのか。
  21. てこが「とても当惑させられるたとえ」(p.161)とあるのだが、てこと言う言葉にこだわるからで、左右非対称と言うか、支点を動かせる天秤(Steelyard balance)を想像すればよい。ホモ・エコノミクスは、天秤が釣り合うように交換する財の量を決める。ただし、限界効用逓減法則があるから、財の量で支点の位置が変わる。すべてのホモ・エコノミクスの天秤の支点の位置、天秤に載せた財の量が等しいときが均衡と考えれば、分かる類比になる。
  22. 「エネルギーは「場の理論」を通じて熱そして電気と同種の方程式で扱われるようになった」(p.184)とあるが、電場や磁場を考えなくてもジュールの法則は成立するハズ。
  23. 「ワルラスが主流派から追放された」(p.110)とあるのだが、ワルラスモデルが流行らなかったことを追放と書くのはどうかと。主流派になかなか受容されなかったぐらいに書いて欲しい。
  24. 価格ベクトルが分かれば他者についての情報は要らない(p.181)とは、ワルラス均衡でもない限りならない。クールノー競争とベルトラン競争で話が変わるわけでして。なお、「人は似たような存在で、他者も同じような欲望を持ち判断を行うと想定して行動することで、同種の欲望を別々の対象にふり向ける人々の間で、市場価格が成立する」(p.64)と矛盾している。
  25. 交換経済において「相手の行動について嫉妬にかられて邪推」(p.181)と言うのがちょっと分からない。交換経済に限っていない話なのか。「経済人は…人を陥れて詐欺的に自分だけが大儲けしようといった策略も持たない」も謎と言うか、経済学では1970年代からずっとそんな経済主体を考えている。
  26. 効用最大化と効用極大化の区別がされていない気がする。「ただ一つの要素(効用極大化)だけを考慮して正しく意思決定」(p.181)は交換経済の話なのでと言うことかも知れないが、「欲望の最善の実現(極大化)の原則によって」(p.187)は、基礎方程式を誤解させそうである。
  27. 「欲望がしばしば自己利益と異なった形態をとる」(p.119)としているのに、「人間が選んだものがその人の欲したものだと定義してしまうなら…何を選んでも…自己利益に基づく選択になる」(p.120)と、議論に混乱がある。顕示選好が欲望に対応しているとしても、欲望が自己利益に対応していないのであれば、顕示選好は自己利益に対応しない。なお、顕示選好で厚生(≒自己利益)評価をすると問題が起きうるとしても、p.189で説明されるように、事実解明的な分析では変わらず有用である。
  28. 顕示選好に対応する効用関数があれば欲望を定義しなくても均衡計算はできるからと言って、経済学において「「欲望とは何か」は問題にならず、不可視にされる」(p.189)と言う事にはならないと言うか、効用関数が分かる方が欲望について調べやすいから。効用関数に歴史や文化の代理変数を入れて推定をしたら関係が分かるわけで、むしろ可視化される。
  29. 「モデル化が規範性をもった特定のルールや制度の「選択」であることを覆い隠す」(p.190)と言うのが謎と言うか、基礎方程式を隠していたらモデルにならない。「経済学の形式化・数学化が進むと…効用関数の成り立ちや根拠が問われることがなくなり」(p.190)と言うのが謎と言うか、変な効用関数をモデルに入れるとめっさ追求される。ミクロ経済学の教科書にも効用関数の形状で結果が変わると書いているわけだし。自然言語だと暗黙の仮定をモゴモゴ言って誤魔化せるときがあるわけだが、数学を使うと定理を導出していく必要があるので、使っている仮定を隠すと計算ができねぇぇ…って読者が困るんですよ。隠していなくても、計算があわねぇぇぇぇ…って困っているけど('-' )\(--;)BAKI
  30. 所得、資産(富)、消費(奢侈)が混同されているきらいがある(p.52)。経済学における典型的なホモ・エコノミクスは消費と余暇を自己利益とするため、「欲望の対象が富」(p.119)はやや特殊な想定になることには注意して欲しい。
  31. 「奢侈がもたらす財産の不平等」(p.53)は、財産の不平等がもたらす奢侈の誤りではないであろうか。
  32. 「搾取」(p.194)は規範的な意味があるので、「投入」を推奨。
  33. 唐突に新自由主義(p.227)が言及されるのだが、論者によって定義がまちまちな用語なので、使う前に説明をして欲しい。
  34. 規範的な人間像と実際の人間の振る舞いの差が意識されていないのか、人々が不本意にホモ・エコノミクスとして振舞う理屈がほとんど説明されていない。
  35. 18世紀末にベンサムによって考案され、本書でも詳しく言及されるJ.S.ミルに引き継がれた、他者の利益が一定ならば、自己利益の追求が道徳に適う功利主義の影響は考察しなくてよいのであろうか。
  36. 「(二次関数)」(p.260)は、教科書の例では二次関数になっているかもだけれども、一般的にはそうではないので、「(下に凸の連続関数)」で。
  37. 「他者を思いやることの重要性」は市場経済社会では否定されているので、「身銭を切っても自分より不利益を被っている人のために票を投じる行動」は市場経済社会とは相容れない(p.263)と言う話、市場経済社会が多くの人々の思考をホモ・エコノミクス化することを暗黙の前提としている。完全競争の経済において、家計(消費者,労働者)がホモ・エコノミクスであったら企業(生産者)もホモ・エコノミクスにならざるをえないであろうが、アメリカの寄付文化を考えるに市場の外側ではホモ・エコノミクスとは言えないし、フェア・トレードを念頭に置くと市場でもホモ・エコノミクスとは限らない。原理的には市場経済と家計や個人の利他性は共存できる。

*1財・サービスの消費が目的になるし、その獲得のための労力の問題があるので、「ホモ・エコノミクスの社会では皆が金持ちを目指し」(p.17)とはならない。

*2経済学で言う合理的は選好が一貫していることをさすが、本書では完全情報も含意しているようだ。

*3政治利用されているうちに「理論の前提として人間がホモ・エコノミクスだと仮定しよう→人間は事実としてホモ・エコノミクスだ→人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」と話が変化したそうだ(p.133)。

*4明確に主張した文は無いのだが、ホモ・エコノミクスを前提とした経済学と経済政策について厚く議論されている。うち一つを挙げると、政治家と官僚にホモ・エコノミクスを前提とした公共選択論が広まることで、民営化と規制緩和による小さな政府を指向させた(p.276, pp.274–278)と主張されている。

*5「経済活動を行うとき、わざわざ自分が損をする取引はしない…この世界のお約束だからだ」(p.13)「自己利益と競争の行動様式を…求められている」(p.13)「私たちはホモ・エコノミクスであることを随所で強制されている。そうでない生き方では、少なくとも「勝ち組」になれないのだから、自己利益の主体としてうまく立ち回るか、貧乏くじを引いて一生我慢するかの二択の様相を呈している」(p.289)。なお、我々は、勝ち組になりたい我慢は嫌なホモ・エコノミクスなので、ホモ・エコノミクスである生き方を強制されていると言う主張になっているから、本当に強制されているのかはよく分からない。

*6例えば、公共選択論が「政治嫌いを助長したり、また政治に割り当てられるべき責任領域を狭めることにつながった」(p.270)と結論している。

*7経済学の影響力を大きく評価しすぎている疑念がある。経済学を学ぶと振る舞いが変わると言う研究もあるが、経済学が広く学ばれるようになったのは大学教育が一般化してからだ。

*8ここは誤りとは言えない。後述するが、経験的な理由でホモ・エコノミクスと言う仮定は有用なときが少なくない。

*9関連記事:マイケル・サンデルの経済学批判

*10関連記事:幸せのための経済学 — 効率と衡平の考え方

*11市場を創る — バザールからネット取引まで』が定番である。数学負荷は無かった記憶。

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