2017年10月12日木曜日

東浩紀の「積極的棄権」が選挙のボイコットを勧めていないとして

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文芸評論家の東浩紀氏が、衆院選「積極的棄権」の署名活動を開始したそうだ。選挙の棄権を呼びかけるとは何事かと非難され、それに投票の棄権を呼びかけているものではないと弁解する問答がされている。何ともポストモダン的状況である。

能書きに「投票に行くな、棄権せよ」と明確に書いていないのは確かだ。東浩紀氏の「積極的棄権」は実際に投票を棄権するのではなく、「棄権したいわ、こんなロクな理由も選択肢が無いこんな選挙」に同意する署名を集めるものに過ぎないとも言える。しかし、棄権を呼びかけていると捉えられても仕方が無いところもある。

1.「棄権を望むことの表明」と棄権の差異

有権者が棄権を任意にできる日本において、「棄権を望むことの表明」と棄権の差異は何なのかを考えると、錯乱しているように感じる。独裁国家で投票に行かないと罰則があり、かつどこに投票するのか監視されているような社会であれば、「私は棄権を望みますが、○○○に入れました」と宣言することに意味があるかも知れないが、これは日本の選挙である。

「積極的棄権」と投票を両立させるには、首尾一貫するべきではない理由が無いといけない。棄権をしますと宣言をして、陰で投票を行なうべき理由はあるであろうか。選択肢が無いと言いつつ、選択肢を選ぶべき理由はあるであろうか。一票を投じる選択肢を選べる人が、選択肢が無いと宣言すべき理由はあるのであろうか。

東浩紀氏も「わたしたちは、そんなに無理して、好きでもない候補者や党に貴重な一票を投じるべきなのでしょうか。そんな一票を投じること自体、茶番を演じる議員の掌に載っていることなのではないでしょうか」とも書いてあり、「棄権を望むことの表明」ではなく棄権の正当化を行なっている。

2. 主張を叶えるもっと具体的な方法

「積極的棄権」の署名活動に意味があるのであろうか。政治家が気にするのは選挙結果である。それに作用しないで政治を変えるのは不可能であろう。投票率の低下が問題視されるようになってから久しいが、投票を棄権する人々に政治が配慮しているとは言えない。衆院議長に署名を渡すと言っているが、署名数より圧倒的に多くの棄権者が存在しているのは万人が知るところだ。

現状の政治に不満があって、人々に呼びかけを行なう事自体は意味があると思う。しかし「積極的棄権」の表明は、気に入らないから何とかしてくれと言う、消極的な働きかけである。具体的かつ的確な主張を模索すべきだ。解散に大儀が無いのが不満とのことだが、選挙結果で野党大勝利の方が、今後の衆院解散に対する圧力になる。呼びかけを行なうにしろ、比例代表の議席数を増やすなりして少数政党を成立しやすくするなど具体的な制度改革案の方がマシだ。解散に大儀が無いのも不満だとの事だが、こちらも総理の解散権の行使を制約すべきと言う主張の方が説得力を持つ。

3. まとめ

「棄権を望むことの表明」が、どのような意味を持つのかが分からない。棄権との差異も分かりづらいし、他の方法と比較した優位性も分からない。「気に入らないから、みんなでボイコットしよう」と言っているのと何が違うのであろうか。「東浩紀が投票の棄権を呼びかけている」と受け取る人々が出ても当然である。ポモ作文はポモ好きにしか好意的に捉えられない。もっと東浩紀氏は表現を工夫すべきであろう。ポモでなくなるのであろうが。

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