2024年5月22日水曜日

ミッシェル・フーコーの学術懐疑論が出てきたら

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社会学を含む人文系の学者の一部に、ミッシェル・フーコーと言うフランスの哲学者を好む人々がおり、政策的議論において学問的な知見(エビデンス*1)を突きつけられると、フーコーは近代的合理性に懐疑的見解を示している、学問も暴力性を持っているというようなことを言って、エビデンスを受け入れるのを拒絶してくることがある。これは自尊心を壊さないための拒絶反応に過ぎないので、フーコーの議論の問題点を指摘して止めをさしにかかろう。

フーコーは一世を風靡した作家だ*2。哲学者に分類されることが多く、本人は歴史家を自認していたようだが、どちらの学問的研究方法を踏襲していない。歴史学者や哲学者はフーコーの史料の選択が一面的で、用語の使い分けが曖昧で主張に混乱があると批判し、何かの分析に使えるような建設的な主張の枠組みが無いとしている*3。フーコー自身もフーコーの議論はフィクションだと認めているぐらいだ。フーコーの主張を請け売りする場合、独自に論拠を揃える必要がある。

フーコーは近代的合理性に懐疑的であったと言われるが、科学的方法に対して批判は加えてはいない*4。フーコーは学者集団は学問的言説において優位であるため、集団に属していない劣位な人々に対して「権力」を持ち、劣位な人々は「従属化された知」を用いて学問的言説に対抗する云々と言うような主張をしている。政府与党の主張に御用学者が無根拠な裏書きをしていく世界観だと理解できるが、これは科学者集団への批判であっても科学(とされる真実探求の方法)への批判ではない。

ミッシェル・フーコーを参照して示されたエビデンスを拒絶すると言うことは、そのエビデンスは研究者が恣意的に捏造したものであると無根拠に主張するのと変わらない。研究者が捏造論文を書くこともあるし、結論が誤っている論文など山のようにある。しかし、その内容ではなく結論が気に入らないという理由でエビデンスの強さを吟味することなく拒絶してしまうと、真実があってもそれにたどり着くことができない。合理的な推論の条件を満たさなくなってしまう*5

フーコーの議論を援用してエビデンスを拒絶すると言うことは、無根拠なデタラメを言っている人の主張を請け売りするだけではなく、合理的な推論を放棄することになる。こういうことに無自覚にフーコーの名前を出して煙に巻く人々がいるわけだが、しっかり指摘して彼らの自尊心を壊しにかかろう。相手の主張を認めるような人ではないと思うが、二度とミッシェル・フーコーの名前なんて出すものかと思わせたら皆さんの勝ち。

*1Evidence (Stanford Encyclopedia of Philosophy)の議論から、議論を真実に導き、信念を正当化する情報ぐらいの意味とする。

*2ただし、同時代の経済学者ガルブレイスや政治哲学者ロールズと比較して大きな影響力があったとは言えない。また学問的にもジェンダー論などの人文系の一部分野への影響はある一方で、科学や社会科学で参照されることはまずない。

*3史料の使い方については、歴史学者のヴェーラーとウィンドシャトルがまとまった批判を加えている。規範を社会構築され偶発的なものと批判するが、批判している潜在的な規範に依存している「隠れ規範依存者(crypto-normativist)」と、ユルゲン・ハーバーマス、ダイアナ・テイラー、ナンシー・フレイザーと言った政治哲学界隈から指摘されている。何かの分析に使えるような建設的な議論は提供していないというのは、哲学者のリチャード・ローティーの指摘だ(Rorty (1986))。なお、これらのことは英語板Wikipediaに列挙してあるぐらい広く知られた話だ。ウィンドシャトルのフーコー批判は山形訳「歴史家としてのフーコー」を参照した。

*4確認した限りだが、科学哲学の分野でフーコーの議論は参照されていない。

*5何が合理的推論かはベイズ意思決定理論を参照。なお、科学的推論は合理的推論であろうが、合理的推論だからと言って科学的推論になるかは分からない。

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