2023年11月23日木曜日

縄文稲作は根拠となる土器の年代に疑念があるよ

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縄文時代後期にイネがあった傍証が見つかっていることから、日本の稲作は縄文時代にははじまっており、しかも華南の長江下流域から東シナ海を渡って北九州に伝来したという江南(直接ルート)説が、日韓問題に強い関心がある一方、考古学に関心が薄そうな人々の間で人気だ。最近は、稲作が日本から朝鮮半島に伝播したとまで言っている。

稲作といっても、灌漑設備が必要になる水田稲作と、焼畑でも可能な陸稲栽培に大きく分かれる。水田稲作は、龍山文化/趙家荘遺跡(山東半島)から黄海を渡って朝鮮半島に伝わり、朝鮮半島から日本に伝播した経路が有力説*1で、縄文晩期から弥生初期にはじまったと考えられている。水田の遺構は朝鮮最古の慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡が3100年前で、日本最古の菜畑・板付遺跡が2900年前であり、朝鮮半島で発掘された農具と菜畑・板付遺跡で発見された農具がよく似ているからだ。これより以前の縄文稲作があるとすれば、おそらく陸稲だ。

縄文稲作について確証はない。畑の跡が見つかって、イネ籾と農具が発掘され、放射年代測定をして縄文時代のものだと判定できれば定説にできる確証だが、ここまで強い物証は無い。ただし、傍証はぼちぼちある。縄文晩期/弥生初期に朝鮮半島からの渡来人が持ち込んだ可能性もあるが*2、縄文晩期/弥生初期から発掘された炭化米に畑作に向く熱帯ジャポニカがある。縄文時代から上層の土壌でイネ属花粉が増加していることが、ボーリング調査で示されている*3。技術的にイネとススキの花粉の判別がつかなかったりするが、稲作の広まりと整合的。また、イネ籾の土器圧痕と、土器胎土中のプラント・オパール(植物珪酸体化石)が発見されている。

1991年に縄文時代後期(約4000–3000年前)に属する岡山県南溝手遺跡の土器に籾の痕が、さらに土器胎土中にプラント・オパールが発見された*4。土壌中のプラント・オパールは攪拌により上層から下層への混入が懸念されるため、コンタミと言われてなかなか証拠として認めてもらえないが、砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる。土器圧痕はイネ籾があったことしか示さないので輸入した可能性が残るが、土器胎土中のプラント・オパールは土器の生地となった粘土中にイネの葉が含まれていたということになるので、栽培の根拠になる。黄砂のように大陸から飛んできて粘土層に落ちた可能性も残るが、イネ籾の土器圧痕とあわせて考えれば縄文稲作が行われていた蓋然性は高い気がしてくる。

ところが、イネ籾の痕と土器胎土中のプラント・オパールによる縄文稲作存在説は、その前提に弱点があった。そもそも圧痕と胎土中のプラント・オパールのある土器の年代が怪しい。土器の特徴から年代が特定されているようなのだが、どうも新しい時代の特徴があり、縄文後期ではなく縄文晩期の土器という疑いがある。縄文晩期だと確定したわけでも無いようなのだが、縄文稲作が行われていた蓋然性が低下した。縄文稲作の存在を有力説のように言う人々はそこそこいるのだが、残念ながら物証は弱い。縄文土器はムササビだと思われていた飾りがイノシシだったことがあったりと研究者の観察が常に正しいとも言えないので、今後、縄文後期だと認定されるかも知れないが。なお、縄文稲作存在説が有力になっても南京里遺跡があるので、日本から朝鮮半島に陸稲が伝播した可能性は乏しい。

*1山川出版社の『詳説日本史研究』にそう書いてあるそうだ。

*2科研の報告書で「夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米は比較的細長いものの変異幅が大きく、炭化米のDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、支石墓やA式磨製石剣とともに熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。」と言う記述を見かけた。

*3稲田, 齋藤, 楡井, 西村, 大浜, 金子, 金子, 島村 et al. (2008).「千葉県八千代市新川低地における完新世の植生変遷と稲作の開始時期」第四紀研究, Vol.47(5), pp.313–327

*4稲作ことはじめ - 岡山県ホームページ

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