2014年11月5日水曜日

安易に民族やナショナリズムを語るのがまずい事が分かる本

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政治学や社会学の単語で濫用されているものと言えば、民族とナショナリズムだと思う。

民族は何をもって定義すべきかが明確でなく、血縁、言語、宗教、習慣などのエスニシティで分類するわけだが、時と場合によってどのエスニシティを用いるかは変わっていくし、そもそもエスニシティも時代とともに変化し形成されていく側面がある。

ナショナリズムも、複数の民族を包容したネイションの国民のものなのか、一つの民族の利害を代弁したネイションの国民のものかで性質が異なるし、歴史的にその位置づけも変化してきた。だからナショナリズムとリベラルを対立軸として捉えたりすると、おかしい事になる。

こういう風に良く見る単語ではあるが、実は理解に曖昧さが残りやすい「民族」「エスニシティ」「国民国家」「ナショナリズム」と言う類の単語の定義を可能な範囲で整理し、歴史的にこれらの単語がどのように見なされてきたかを確認した上で、現在のナショナリズムについて考察を行なう意欲作が『民族とネイション』だ。

政治学者が書いているせいか、教条的な主張は見られない。また事例が豊富なので、観念論で理解し難いこともない。例えばエスニシティが形成されると言われても直感的理解は難しいと思うが、チェコとスロバキアは近いエスニシティだったが、オーストリア支配とハンガリー支配で行政区分が異なった(p.104)ことや、ユーゴスラビアではクロアチア人とセルビア人と言う区分がされ、共和国が分けられていたために民族意識が高まった(p.132)ことなどが列挙されていると、そんなものかなと思える。

最後の第Ⅴ章「難問としてのナショナリズム」で、ナショナリズムを安易に議論する事の問題点を議論している。近年一般に思われているようにナショナリズムが必ずしも暴力的な対立を招くとは言えず、場所時々によっては肯定的な側面も持ちうる。しかし、良いタイプと悪いタイプのナショナリズムに二分するのも難しい。また、ナショナリズムの被害者であったエスニシティが、ナショナリズムによる加害者になるケースも多々あり、特定のエスニシティのナショナリズムに限っていっても良し悪しを断定するのは困難なようだ。ポーランド人(p.102)やシンハラ人(p.186)のケースが挙げられていた。

著者はナショナリスティックな感情が他者への攻撃的な形になるのは防止する必要を認めつつも、ナショナリズム自体を否定する必要は無いとしている。歴史問題で一面的で独善的な政治論争になりがちな点も批判しており(pp.168–180)、明確には記されていないが複雑なエスニシティ間の問題を安易に単純化して叩き切る事への否定が、本書のメッセージのようだ。本書もそう個別事情に立ち入って議論しているわけではないが、それでもそれぞれに複雑な事情があり、民族やナショナリズムを語る難しさは伝わってくると思う。

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