2018年4月4日水曜日

福島差別に対抗するのに要らない社会学者の議論

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福島差別に対抗するには何が必要なのか、分かりやすく論じられていると近畿大学の奥田均氏の2012年の「福島差別:もうひとつの原発事故問題」と言う論文を勧めているツイートを見かけたのだが、二つの意味で問題があるので指摘したい。一つは、相対的にマイナーな点ではあるが、2012年に書かれているためか、2018年までに起きたことをよく反映していない。一つは、人々が受け入れる事ができないであろう規範を、それが絶対の真理のように押し付けている。

1. 実際に生じた差別行為を網羅できていない

現実的に未来予測は無理なので瑕疵ではないが、2012年3月に書かれたこの論文は差別の実態を追いきれていない。原発事故当初の2011年は、放射能を感染症のように誤解したための差別行為が主ではあったが、その後は福島県産物への国内外の風評被害や、帰宅困難者の経済状況などへの無理解から来る心無い言葉への言及、市民レベルでの放射線防護に取り組む団体への中傷行為などが生じた。他の保護者から避難者への不安の声が出た場合に対応できないとして、保育所が予防的に避難者の受け入れを拒絶するような、事なかれ主義による問題なども生じている。

2. 人々が受け入られない特異な規範

論文には特異な倫理観を前提とした議論が展開されている。「差別は、いかなる理由においても正当化されてはならない」とし、「肱射線が人から人へ感染することはない」ので「安全である」から「差別をしてはいけない」ことを否定している(P.72)のだが、その疾病が重篤なものであれば感染症の患者を隔離することは必要と認められている差別行為である。インフルエンザやエボラ出血熱の罹患者を遠ざけるような事は広く行なわれている。

正しい情報や科学的な知識にもとづいた適切な対応は、必要に応じた適切な取り組みであって、差別ではないと主張しているので、感染症の予防のための隔離措置は差別ではないと言う論理なのかも知れない。しかし今度は、『こんな論理を認めてしまえば、「放射線が人から人へ感染することがあるのなら差別してもよい」ということになるのであり、感染症の病気においては差別を容認することになる』言う批判が、「差別」を「必要に応じた適切な取り組み」と言い換えるだけで回避できてしまう。

どうも社会学者は、合理的理由があれば差別を肯定できるとすれば、悪人は合理的理由をでっち上げてくるので、結局はいかなる差別も肯定されると言う謎法則を前提にしている気がするのだが、正しい情報や科学的な知識を重視することで合理的理由のでっちあげを防止できるし、合理的理由を否定しても、実際は「必要に応じた適切な取り組み」か否かの理由付けが必要になって状況は変化しない事が認識できないようだ。

3. 飛躍して誤謬を起こした議論

最後だが、論理的な誤謬もある。『こんな論理を認めてしまえば、「原発近隣の人々が、健康被害を生じるほどの放射線を浴びていた場合は差別してもよい」となり』とあるが、感染症の予防を目的として差別が合理化されるのであるから、万が一原発近隣の人々の健康被害の程度が酷いとしても、感染症でない限りは差別は合理化されない。感染症でなくても健康被害が大きければ、その害悪が伝播するという謎の法則を前提としているのかも知れないが、そのような法則は自然界には無く、社会一般にそのような誤謬があるわけでもないので、意味不明である。

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