2015年12月6日日曜日

東浩紀のゲンロンは日本から消滅すべき

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産経毎日新聞で批評家・作家の東浩紀氏と社会学者の開沼博氏の『脱「福島論」往復書簡』が掲載されていた。開沼氏は、福島県外の非当事者からの原発災害に関する意見に「ありがた迷惑」なものが多くあり、無自覚にそれを行わないようにして欲しいと訴えている*1のだが、それに東氏は『発言の権利がある人とない人を、誰かに「迷惑」か否かといった基準で分割する、乱暴な発想』と批判している。東氏は、開沼氏に「外から乗り込んできて福島を脱原発運動の象徴、神聖な場所にしようとする」のが迷惑だと宣言されて、「福島第一原発観光地化計画」が否定されたように感じて傷ついているようだ。計画が被災者のためになるか、迷惑になっても実行する価値があることを主張すれば良いだけ*2なのだが、発言権が取り上げられたように感じているらしい。

1. 発信をすれば批判は避けられない

東氏の開沼氏への批判に無理がある。開沼氏は「ありがた迷惑」行為者に発言権が無いとは言っていないので、東氏に発言権はある。さすがに東氏も理解していると思う。問題は、東氏のゲンロンに批判を加えることが許されるかだ。開沼氏は、批判されても創作活動を続けている人々を紹介しつつ、「何かを発信してその言葉に反応する人との間に葛藤が起こった時、向き合うことが思想や文化にとって生産的」で、「葛藤が生産性を落とすとして、避け続ける」東氏の態度はそうではないと指摘している。東氏自身も、開沼氏の「ありがた迷惑」であると言う主張を批判しており、東氏の他者への批判は許容している。東氏と開沼氏の発言の自由に不公平を認めるべき理由は無いから、東氏の主張は我侭としか言いようが無い*3

2. 功利主義的に開沼氏の「ありがた迷惑」は正当化できる

テクニカルにも問題がある。東氏は『誰かに「迷惑」か否かといった基準』を否定しているのだが、「迷惑」を「苦痛を与える」に置き換えれば、功利主義の観点から正当化するのは容易であろう。皮肉で言っている気もするが、それが善意から出たものであれば、被災地に関する発言をする幸福、しない苦痛は論者には生じない。部外者が直感だけに基づいて行う発言は不愉快なものも少なくなく、法的に認定される風評被害に至らなくても人々の不安を煽るものもある。発言の自由を封じると潜在的な問題が生じるのでヘアの言う直観レベル、つまり法的には許容せざるをえないわけだが、批判レベルでは迷惑行為だから排除自制すべきと正当化することはできるはずだ。哲学者は過去の思想に詳しいはずなのだが、思いつかなかったのであろうか。

3. 他の哲学者は批判を受けて立っている

哲学者が社会問題を扱うのは良いと思う。ピーター・シンガーの生命倫理に関する議論*4も、マーフィーとネーゲルの財政に関する議論*5も、拝聴すべきところは多いにある。しかし、これら倫理学の方面の仕事は、周到な調査によって他分野の研究成果を反映したものとなっており、他者に批判を加えることにも他者からの批判に反駁することにも多くのページが割かれている。部外者は黙れと言われて、黙るようなか弱い議論ではないわけだ。他者との葛藤を恐れてはいない。開沼博氏に不満を述べる東浩紀氏の態度とは随分と異なる。しかし、哲学や思想とはこういうものなのでは無いであろうか。テレビ番組で人気になったハーバード大学のコミュタリアンも、舌先三寸で他者からの批判を丸め込んでいる(そうだ)。

4. ソーカル事件からフランス現代思想流の欠陥を学ぶべき

上述の哲学者たちは学術的で分析的な英独の哲学の系譜に位置づけられるからそうであって、東浩紀氏が専門とするデリダなどのフランス現代思想はそれとは異なるのので勝手が違って困惑しているのかも知れない。フランス現代思想は、英独哲学との差別化で前衛的な芸術や文学のスタイルを持ち込み、論理ではなく感性に訴える方向に発展した*6。しかし無批判に発展していった結果、読み手が理解を諦める文章の集合体のようになってしまったことが、ソーカル事件で露呈した。数学・科学用語を濫用していた事もそうなのだが、生産物が批判的に読まれなかったことで出鱈目が横行したことが、フランス現代思想の失敗なのでは無いであろうか。批判そのものに困惑してしまう東浩紀氏の態度は、ソーカル事件から何も学んでいないように感じる*7

5. 無批判な状態でしか成立しないゲンロンは消えるべき

批判無き言論が空虚なものだ。批判が許されない言説は、それが正しいものか意味があるものか、判別できない事が大半だ。この世は広く何人も知らないことの方が多いわけで、一耳で是非を判断できる事は少ない。批判に耐えて耐えて生き残った言説であるから有用性に信念を持てるのであって、批判に脆弱な議論は無用であると判断せざるをえない。勘違いで迷惑であると言われても、勘違いではないことを示す必要があるわけだ。東浩紀氏のゲンロンが無批判な状態でしか成立しないのであれば、それは結局、建設的なものでは無いであろう。無益なものは、消滅すべきだ*8

*1往復書簡では詳細が分からないが、『【 番外編】「福島へのありがた迷惑12箇条」~私たちは福島に何が出来るか?~』に具体的な話がある。

*2東浩紀氏も往復書簡中やメールマガジンで、その必要性は訴えてはいる。こんなに回りくどく書かなくても、『被災者の思いに関わらず、福島は脱原発運動の聖地とすべきであるから、開沼博の「ありがた迷惑」は間違っている』と反駁すれば簡単だと思うのだが。

*3ただし、注意深く倫理を構成すれば、他者を批判する人物を批判することのみを道徳的とする事もできるかも知れない。もっとも東浩紀氏は、日本の原子力政策を批判しているので、この基準でも自身を例外的に取り扱っていることになるが。

*4関連記事:これから「殺人」の話をしよう

*5関連記事:税制に一家言持ちたい左派は読んでおくべき「税と正義」

*6関連記事:何が狂っているのか分かる「フランス現代思想史」

*7関連記事:あずまん、ソーカル事件の余波にもっと苦しもうよ

*8もちろん主張者の意向に関わらず批判はされるものなので、消滅しなくても無問題である。

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