2012年8月5日日曜日

無限に投資しようとする資本主義と、投資量が一定の資本主義

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稲作経済で世代間の不公平の説明を試みたエントリーに、はてなブックマークで@himaginary_氏に「種もみと糧もみ」と言うエントリーを紹介された。ソ連で投資と消費の配分が上手く行かなかったと言う話で、世代間格差の話とは種もみしか共通事項が無いが、二つの点が気になった。

ブログのエントリーでは、資本主義では無限に投資しようとすると主張しているが、これは無理がある。次に、コメント欄ではエントリーの主張と合致しているかのように、資本主義社会では投資量が一定になってしまう事があると主張している。明らかに合致していない。

コメントしている@himaginary_氏に、変に意見が合うように見せずに激しく意見の相違点を主張しろと思ったので、より詳しく状況を見ていこう。おっと私にではなく、小飼弾氏にですよ。

1. 資本主義でも人は消費するために稼いでいる

まず、エントリーの主張に無理がある点から見ていこう。

エントリーでは、収穫物を種籾にするか消費するかのバランスを議論している。収穫物は、種籾として再投資されるか、消費するかの二択になっている。その上で、社会主義だと人々は全てを消費しようとしてしまい、資本主義だと人々はひたすら再投資して種籾を増やそうとすると主張している。

資本主義は取引価格や取引量が自由な社会だが、人間に資本蓄積を至上とする事を強いてくるわけではない。大半の人は消費するために稼いでいるので可能ならば贅沢をしたいと思っているであろうし、多少は将来の事も考えるので種籾まで食べたりしない。現在の消費と、将来の消費が釣りあうように、おおよその貯蓄水準が定まる事が分かっている*1

2. 投資/消費 vs 貯蓄/投資/消費

エントリーとコメント欄における前提の乖離を見てみよう。

コメント欄で@himaginary_氏(Posted by 暇人)が、貯蓄/投資バランスの話を持ち出してくる。ブログのエントリーでは、収穫物の用途は投資/消費の二択になっているため、貯蓄/投資/消費の三択になっている議論は乖離がある。

種籾を撒かずに保存する事には不自然は無い。干ばつなどでの投資失敗を考えれば、消費や投資に回さずに、単に保持しておく種籾があっても良い。しかしエントリーでは投資/消費に話が単純化されている*2

国民経済計算から見れば三択モデルが自然でも、エントリーの前提を受け入れるか、明示的に三択で考えるべきだと指摘するべきでは無いのであろうか。そして、二択では需給ギャップはありえず、三択だとありえる大きな相違が出てくる。

3. 需給ギャップが無い世界とある世界

ブログのエントリーの設定では、資本主義社会には需給ギャップは存在しない。ひたすら種籾を増やす為に、全ての種籾が再投資される。人間の価値観に異常がある世界*3だが、以下のように書かれているわけで、経済は極力拡大する。

余った種は、誰の口にも入らず再び種として播かれるのだ。

コメント欄の議論は、ケインズ的な需給ギャップが存在する。収穫物が余っていても、それは撒かれたり、消費されたりしない。投資量と消費性向が定まっている世界だ。そこの生産や消費には、人間の価値観が反映されない。そして経済規模は、恐らく投資量で定まっており拡大しない。

ご指摘の通り過剰貯蓄ということは発生し得まして、その場合は貯蓄と投資のバランスを取るために輸出を行うか、もしくは経済全体が縮小して貯蓄を減らすということになります

需給ギャップの有無と言う点で、過剰貯蓄は発生しえない世界を、@himaginary_氏は需給ギャップがある世界だと見なしている。もう6年も昔の事だし、何か疲れていたのかも知れないが、何でも需給ギャップが問題の世界に見えるのは、ちょっと問題かも知れない。

*1詳しくはラムゼー・モデルを参照。世代重複モデルやフィナンシャル・アクセラレーターの議論で投資水準が最適にならない事は分かっているが、経済が過少均衡するだけで壊滅するわけでもない。

*2投資量に応じて単純保存する種籾の量が決まる場合は、投資/消費の二択モデルでもおかしくない。

*3狭義に言えば割引因子が1以上の人々が生活している事になる。

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