2022年1月28日金曜日

言論の自由を擁護する前に、J.S.ミルの『自由論』を読んで理屈を整理して欲しい

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武蔵大学の北村紗衣氏に誹謗中傷を止めるように言われている雁琳氏が*1、下品な表現を容認しないといけないと言う話をしている*2のだが、理屈が通っていない気がするので指摘したい。道徳を嫌っているようなのだが、道徳哲学の議論を借りてくると、もっと上手く話を構成できるはずだ。

1. Je suis Charlie私はシャルリーは論拠として弱い

まず、雁琳氏は話の掴みで、シャルリー・エブド襲撃事件を持ち出しているのだが、事件後、表現の自由を訴えるデモが盛り上がったことは、表現の自由を正当化するのであろうか。もちろん、支持者が多いことは政治的に表現の自由を正当化する。しかし、事件の契機になった風刺画は、雁琳氏が言うような下品な表現とは違う。そして事件に抗議するデモの中心地のフランスでは、侮辱、名誉毀損、憎悪・暴力の扇動、テロリズムの擁護は違法だし、キャットコールも違法で、公立学校でヒジャブも身に着けられない。本当に表現の自由のためにデモをしていたのかと言うと、かなり怪しい。

2. 見当たらない表現の自由が重要な理由

次に…と言うか、雁琳氏は表現の自由は優越的性格を持つ権利で、なるべく尊重されなければいけないことを繰り返し主張しているのだが、上述の話以外は、表現の自由が尊重されなければいけない理由を何も説明していない

「法というものは、非人情である」から…と言うのがその説明なのかも知れないが、侮辱や名誉毀損は人情に対する不法行為だし、刑法の他の罪でも情状酌量の余地は考慮され量刑などに反映されるから、法律は非人情と言う話はおかしい。また、冒涜罪がある国だってあるわけだし、「非人情なものだからこそ、他の宗教を下品な仕方で冒瀆するという厚顔無恥な表現であっても許されるべきものとなれる」とは限らない。

雁琳氏は「法は道徳や政治とは範疇的に異なる。」と主張しているので、政治が、理想的には道徳に基づいて、立法を行うことを認識できていないために、表現の自由を正当化する道徳哲学を知らず、言論の自由をうまく正当化できないようだ。法律に物事の良し悪しが書いていなくても、立法の正当性は議論されることになっている。

3. 教えて!ジョン・スチュワート・ミル!

表現の自由の正当化を行いたいのであれば、ジョン・スチュワート・ミル『自由論』の第2章「思想および言論の自由について」を読むのが手っ取り早い。話を雑に紹介すると、

  1. 一般に認められた権威の意見が誤りであって、他の意見が真理であるかも知れない
  2. 権威の意見と他の意見がそれぞれ部分的な真実を含む可能性がある
  3. 権威の意見が真実であっても、その真理性を明確に理解し、説得的なものにするためには、反対意見と比較検討しなければならない
  4. 反対意見と比較検討し続けなければ、権威の意見も形骸化する

ゆえに、言論の自由は重要だ。このミルの議論と、言論とその他の表現の線引きが困難である事実から、表現の自由が保障されることになっている。世界各地の憲法起草者が216年前に書かれたこの本に影響を受けているのは間違いないというか、他に現行制度を上手く正当化できる理屈は知らない。

4. 道徳哲学は物事の是非を主張するのに有用な道具

人文系の学問で博士号を取得している人々も、道徳哲学の本の知識が欠落していて物事の正当化が上手くないように思える人が少なくない。文学や歴史を学んだり研究したりするのに必要の無い知識とは言え、良い悪いを言うための方法を学んで来ていないことは自覚して欲しい。学部生向けの道徳哲学の教科書をざっと目を通すだけでも、もっと上手く議論を組み立てられると思うのだが。

*1北村氏の主張に寄ったが、違法行為になるかは裁判官でもないし判断できない。

*2【しらなみのかげ】 下品なことを言う自由について #18|雁琳の『晦暝手帖』|note

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