2020年6月22日月曜日

暴徒による銅像引き倒しの倫理

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ネット論客の青識亜論氏とマヤ考古学者のローヘッド氏が、アメリカの暴徒による銅像引き倒しの是非を巡ってやり取りをしているのを見かけたのだが、捻りを入れて主張が展開されているためか、話が捻れていて相互理解から遠いことになっている。

青識亜論氏の主張は、(a.1)違法行為は悪、(a.2)政治的メッセージを発する権利としての「表現の自由」は、信条や信念に関わらず平等に保障されるべき、(a.3)器物損壊されないという意味での財産権が「表現の自由」を優越する、対するローヘッド氏の主張は、(r.1)超法規的行動が善になる場合もある、(r.2)ソーシャル・リベラリズムが正しい道徳であり、差別主義者には「表現の自由」は平等に認めるべきではない、(r.3)アメリカの遅々として解消されない人種差別の現状から、銅像破壊は道徳的に正当化されると言ったところであろうか。

追記(2020/06/22 10:05):ローヘッド氏に、(r.2)と(r.3)は氏の主張と異なると抗議されたのだが、居住する自治体の公共の場にヒトラーの銅像があれば徹底抗議し、受け入れられなかったら違法であっても引き倒すとしているし、ヒトラーの銅像があってはいけない理由として「ユダヤ人の多くは単に非常に不快な思いをするだけではなく、そんな銅像を建てヒトラーを称えてる市民がいることに恐怖する日々」と説明があるので、(r.2)と異なるようには思えない。また、南部連合国軍人を崇拝の対象をしてる白人至上主義者がいることを前提に銅像が問題としているので、(r.3)も異なるように思えない。

1. 違法行為でも道徳的なことはある

超法規的行動が道徳的なこともある*1。規則功利主義的に、自己救済は法治主義に反するので、悪法も法なので従えという話になりがちだが、法律は道徳的な正しさを保証するものではない。第二次世界大戦中、ドイツやその占領地ではナチスに逆らってユダヤ人を匿うのは違法行為であったはずだが、むしろ善行と考える人が多い。1989年11月9日のベルリンの壁崩壊ときに群集が国境検問所に殺到したのも、悪とは言えない。武力革命であった1989年12月のルーマニア革命も、悪とするのは難しい。普通選挙が行われている民主的な国家でも、多数派が少数派を虐げており民主的な解決が見込めない場合などは、暴力的手段は道徳的に許容されうる。

2. 先進国でも「表現の自由」は広く制限されている

財産権の侵害の無い「表現の自由」は信条や信念に関わらず保障されるべきと言うのは、(権威主義やキリスト教保守主義を批判してきた)古典的なリベラリズムの立場ではあるのだが、ソーシャル・リベラリズムではこの立場をとらない*2。差別主義者の言説が広まることで社会厚生が悪化することがあるのであれば、規制されるべきと言うことになる。実際、名誉毀損・誹謗中傷・公衆猥褻・プライバシーの侵害などは許されておらず、最近はセクハラ発言なども制裁されるが、公正な規制だと考えられている。ドイツには、憲法違反の組織のシンボルを芸術/科学/研究/教育以外で用いることを禁じた刑法第86条と言うのがあって、1950年代から現代まで時折、ネオナチや共産党が取締りを受けてきた。

3. 銅像破壊が道徳的に正当化されるとは限らない

こういうわけで、ソーシャル・リベラリズムの立場から、ある種の銅像を撤去することが善であり、かつ超法規的にそれを実行することが正当化されることはありえる。しかし、アメリカの遅々として解消されない人種差別や人種格差の現状から、銅像破壊は道徳的に正当化されるかは定かではない。

銅像破壊が、それが地方自治体などの所有物であっても財産権を侵害することは間違いなく、被害額を計算することは比較的容易だ。リバタリアンの倫理、ノージックの権原理論から考えれば、明らかに不道徳と言うことになる。功利主義などの帰結主義や、ソーシャル・リベラリズムを支えるとされるロールズ主義で考える場合、財産権の侵害程度と銅像破壊の効果を天秤にかける必要があるが、奴隷貿易に携わったり奴隷を利用していた人物の銅像が差別や格差を助長しているのか、もしくは、銅像破壊が契機となって差別や格差が解消されるのかは不明瞭だ。黒人の不安の解消になるとも思い難い。

警察官が銅像から影響を受けて振る舞いを変えているとは思い難いし、そうであっても偉い人の悪行は一般には忘れ去られているものなので、銅像を見た人が人種差別が社会に肯定されていると考えるかは疑わしい。また、悪行を知っていても、悪行まで見習おうとするかは別だ。伊藤博文を見て、英語を学んで出世しようと思う人はいるかも知れないが、不倫カーセックスに励もうと思う人はいないであろう。市民革命で独裁者の銅像が引き倒されてきたが、独裁者の銅像を引き倒すことで市民革命が生じた事例は、寡聞にして聞かない。逆に、銅像引き倒しのように暴力的な行為は、その行為を行っている集団への偏見を高める恐れがある。

4. 古典的なリベラリズムの重要性

黒人に対する人種差別や、黒人と白人の格差が遅々として解消されない事は事実なのであるが、銅像が何かの鍵になっているとは思い難い。むしろ、今までのソーシャル・リベラリズムの立場から行われてきた施策が十分に機能していないわけで、ソーシャル・リベラリズムに基づく施策を批判的に検討すべきだ。奴隷貿易を肯定する議論は不必要ではあるが、それらと同じだとソーシャル・リベラリズムに頭ごなしに否定されてしまった施策の再検討も要る。そのためには、ポリティカルコレクトネスに反するとされる言説を広く世に問うことも必要になってくるわけで、古典的なリベラリズムの立場が重要になる。古典的なリベラリズムに立てば、差別主義者の銅像もまた受忍すべき表現の自由だ*3

5. キャッチコピーを唱えても対話にならない

暴徒による銅像引き倒しは、拠って立つ倫理や銅像が持つ社会的機能への見解によって、肯定的にも否定的にも捉えることができる。「表現の自由」のようなキャッチコピーからそれぞれの立場を揶揄して話が捻れてしまっているようなのだが、自分ではなく相手の倫理に立って実証的に議論していかないと、なかなか建設的な議論にはならない。「反転可能性テスト」も、代表的な倫理ではパスしてしまう*4ので、ほとんど議論の助けにはならない。おっと、アメリカの問題を異国の人間がネットの片隅で議論していたって何も解決には結びつかないから、どちらにしろ建設的ではないか(´・ω・`)ショボーン

*1ここでの議論とは異なる内容だったかも知れないが、違法行為が道徳的になる条件については『実践の倫理』の最後の方に議論がある。

*2関連記事:ネット界隈の風紀委員型リベラリズムは異端とは言えない

*3法哲学者ロナルド・ドウォーキンの「自由を得るために払う犠牲によって、たとえ本当に痛みで苦しまなければならないときでさえ、自由には、それと引き換えに得るだけの重要性が十分にある。」と言う言葉を引用したい。

*4大体のケースで役に立たない。「アッシリア人はシュメール人の財を奪う権利がある」と言うようなアッシリア人の横暴な主張も、「私がシュメール人であればアッシリア人に財を奪われても受け入れる」と開き直られたらは反転可能性テストはパスする。反転可能性テスト云々と言う前に、アッシリア人とシュメール人は道徳的に同じ地位であるべきと言う前提を確認することの方が大事だ。

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